福沢諭吉『事物を疑って取捨を断ずること』(学問のすゝめ十五編)

 

または「東西文明は一長一短」

『学問のすゝめの』この前の章までは福沢自身が「西洋と比べていかに日本の遅れていることか…」「西洋化!西洋化!とっとと西洋化!」と嘆きまくってたが、一定の反省期間を置いたのちに書かれたためか西洋一辺倒の勢いは無く、むしろ東西文明の調和を志すような内容。


■盲信の日本と懐疑の西洋
日本ではいまだに時代遅れの道徳や迷信がはびこっている。
一方、西洋の科学、社会の発展はひとえに懐疑の精神の賜物である。その例は枚挙にいとまがない。

■今度は西洋文明を盲信し始めた日本
日本人は西洋文明に刺激され、幕府を倒して新政府を立ち上げたが、盲信の対象が東洋文明から西洋文明に代わっただけで本質は何も変わらず、肝心の懐疑の精神そのものは未だ持ち合わせていない。

■当然、西洋文明も盲信すべきではない
もちろん西洋の文明は日本のものより幾段か優れているのは間違いないが、欠点も数え切れないくらいある。西洋のやることなら全てを真似をするというのは利口ではない。
近頃あまりに西洋文明を軽々しく信じ、自国の伝統を軽んじる批評家先生が増えた。

■西洋至上主義者のこじつけ
仮に西洋人と日本人の習慣を入れ替えても、こうした批評家先生はどうにか西洋を褒めて日本を貶す理屈をひねり出すだろう。

西洋人が毎日風呂に入り、日本人が月1、2回しか入らなかったらどうか。西洋人は夜でも必ずトイレを使い、手を洗い、日本人が尿瓶を使い手も洗わないようであったらどうか。
批評家先生は「さすが西洋人は清潔を重んじる風がある。それにしても野蛮で不潔な日本人には困ったものだ」と言うだろう。

茶碗蒸しや鰻の蒲焼も西洋料理だったならば世界一のごちそうとしてもてはやされるに違いない。
宗教の面では、もし仮に西洋に親鸞聖人がおり、日本にルターがいたらどうだろうか。
「さすが西洋の仏教はありがたい。その教えのために殺し合いが起こることもなく人口の半分以上が帰依している。それにひきかえ日本のキリスト教のあさましさはどうしたものか。『汝の敵を愛せ』と説く宗教がさんざん血で血を洗う殺戮を繰り返した上、ルターの新教は人口の半分も感化できていない。全く日本人の野蛮さよ」とでも言うだろう

■信疑取捨は学問に志す者の使命
というわけでやたらと西洋の長所を宣伝する連中の言うことは全くあてにならない。
我々は東西文明をよく比較し、東洋文明の良いところは残し、西洋文明の悪しき部分は真似しないといった分別をそなえなければならない。

 

○感想
海外のもの、文化風習をありがたがったり参考にするのは外国に対するリスペクトや向上心にも結びつくのでむしろ好ましい性質とも思える。ただ限度があるって話で。

外国人の威を借りて「これだから日本人は」とマウントをとるような奴は明治期からいた。漢学者も含めればもっと昔からいただろうし、今もいる。

 

 

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

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