モンテーニュ『臆病は残酷の母』(エセー第二巻第二十七章)

この章では臆病と残酷さの関係の他、卑怯、純粋な残酷について語られている。

卑怯については決闘と関連して語られていて、「剣術は勇気ではないので卑怯!だから貴族は名剣士と呼ばれるのを嫌がった」など興味深い話が並んでるが、モンテーニュ自身が言う通り本筋から離れているので割愛。というかモンテーニュの自由なダベリにそもそも本筋があるのか…?

本筋から離れた話といえばフィリッポスの話と関連して、敵に追い詰められた母子についてのエピソードもそれなりの尺を取って紹介されている。これも物凄い話だが関係無いので割愛。やっぱ本筋なんかあってないようなものか

 

■導入
臆病は残酷の母と言われることがある
たしかに、意地悪く残酷な心には女々しい惰弱が伴う。
最も残酷な人々がつまらぬことで涙を流す。

″ フェライの僭王アレクサンドロスは涙を見られるのが嫌で人前で悲劇も鑑賞できないほどだったが、一方で毎日大勢を虐殺していた″

 

■臆病者ほど残酷さで補おうとする
臆病は、敵と戦うという第一の役目に加わることができなかったので、自分も一役買ったと主張するために、第二の役目である殺戮と流血を引き受ける。勝利後の殺戮は、武勇を知らない庶民や末端の兵が英雄気取りで行うのが常である。

″生きてる野獣に挑む勇気はないくせに、その死骸なら引き裂く臆病な犬のようなもの″

 

■とりあえず殺しとけば安心!
昔の復讐には段階があったが、今はいきなり最終手段、すなわち殺害から取り掛かる。なぜなら我々は昔より臆病になったからだ。我々は敵が生きていることに恐怖を覚えるようになり、敵を生かして屈辱を与える勇敢さより、敵を殺す安全を取るようになった。
今では決闘も一対一で行うのが恐ろしいため、それぞれ介添人がついて合戦のようになるのが当たり前になった。(これもまた臆病さから余計な流血が生まれたことになる。)

"自分が侮辱した相手を、自分を侮辱した相手のように、殺そうと付け狙う"

 

■残酷から臆病が生まれる悪循環

最初の残酷は残酷そのものから生まれる。そこから正当な復讐が生まれ、復讐に対する恐怖が生まれ、その恐怖のために新しい残酷が次々生まれる。

暴君の残虐さも自分の残酷さが生み出した復讐への恐怖から生じている。

″フィリッポスは復讐を恐れ敵のみならず敵の子供も毎日次々と殺すことに決め、心の平安を得ようとした。″

 

■以下余談の残酷話
※臆病さとの関連付けはあまり無くなり、「私は単純な死刑以上の刑罰はすべて純粋な残酷であると思う」の一言を皮切りに(臆病さとは無関係の)純粋な残酷さについて異様なエピソードが語られている。たしかに臆病さでは説明出来ないような凄い話が淡々と語られているのでヒストリエとか好きなら必読。

 

○感想
攻撃性や陰険さが弱さから生まれるってのは確かにある。実例はその辺に掃いて捨てるほど見つかる。

強さと優しさがワンセットで語られるのもこの考え方とウラオモテ。どっち側の人間になるかは…あなた次第!

 

 

 

エセー 4 (岩波文庫 赤 509-4)

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