エピクロス『水とパンで快に満ちる』(断片二の37)

 


水とパンで暮らしておれば、わたしは身体上の快に満ち満ちていられる。そしてわたしはぜいたくによる快を、快それ自身のゆえにではないが、それに随伴していやなことが起るがゆえに、唾棄する。
岩波文庫エピクロス・教説と手紙』114ページ

 


○感想
苦難に対してはストア派が「男らしくひたすら耐える」思想だとするとこちらは「足るを知る」であるのが違いか。正直なところストア派の不動心(アパティア)とエピクロス派の平静心(アタラクシア)の違いがよくわからない。確か平静心の方が大きい概念で、不動心は平静心に至る手段の一つという位置付けだったかな。だとすれば別に対立する概念ではないし、実際、行動だけを見れば傍目からは区別がつきにくいもののようだ。

ストア派が快楽は悪!としたのに対しエピクロス派は別に快楽を否定はしてないので禁欲主義vs快楽主義とわかりやすい対立構造にさせられてるがエピクロス派は別に積極的に快楽を追求してるわけではなく「自然体」の徳を説いてるだけでこの点は誤解されてる。後世で呼ばれてるところのあちこち遊びまわるような「快楽主義者」は全然エピクロス的ではない。むしろこの説で説かれているように「ぜいたくには不快がつきまとう」ということで放蕩三昧は否定されてる。
自然体で、静かな心でいることが最高の快楽だ、ということ。

ゼノンから始まるストア主義は様々な偉人を生み出したがエピクロス派を名乗る偉人は聞かないな。
しかしストア主義は偉人も多いがそれ以上に「傲慢で鼻持ちならない哲学者」が多く、特にキリスト教的世界観の物語ではむしろ頑迷な異教徒かつキリスト教徒を敵視する悪役として登場している割合が多い気がする。
思いのままにならない世の中で一人立つための「やせ我慢」「ザ・ストイック」ストア派に対して、エピクロス派はそもそも遁世的なのであまり表舞台に出てこないのも当然か。

ところで個人的には(ネガティブ思考が染み付いてるせいか)「ぜいたくに随伴する不快」について心当たりが色々ある。
・どんなに楽しい飲み会でもその後の気分の悪さや割高な出費を苦々しく思うことがある。
・どんなに美味しいご馳走も少し飽きがくるだけで嫌気がさす。
・高級品を持てばそれが傷ついたとか無くなったとかでかえって非常な不快を感じる。
こうした例は枚挙にいとまがない。

本当に快いものには「随伴する不快」は少ないか、ほぼ無いもの。天気のいい日に散歩するとか。確か禅の思想だったかで「美味しいものを食べられるから嬉しいのではなく、味を感じるから嬉しい」というような言葉があったが、全く心から同意する。エピクロスの思想もこのあたりと通じるものがある。

こういう価値観でいると自然と質素になり、質素で無駄がないという見かけはストア主義に似てるが、だからといって「俺はお前らとは違う」と自惚れたり他人を見下したりするような余地がないのがエピクロス派の優れた点。

とはいえ遁世的な生き方が出来ず、これからも世の中と向き合い続けなければならないなら、ストア主義の方が力になるとは思える。

 

 

 

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)