唯円『仏の救いに甘えている者について』

 

歎異抄十三条

 

まず、阿弥陀仏の本願とは、「生きるもの全てを救う」という誓願のこと。
浄土真宗ではこの誓願が成就していることから「我々はすでに救われている」と説く。

 


■本願ぼこり、救いに甘える者について

いかに弥陀の本願が不思議なものだからといって自分が犯す罪を恐れないのは救いに甘えてつけあがること(本願ぼこり)であってこういう人間は浄土に行けない、と言う者がいる。

これは弥陀の本願を疑う考え方であり、この世の善も悪もすべて過去の世の行いによるものと心得ていないことだ。

 

 

■縁なくば人を殺すことはなく、縁があれば人を殺すこともある

どんなことでも自分の心で決められるなら浄土に行くためには千人でも殺せるはずだ。しかし、そんな縁が無いから一人も殺せないだけのことだ。縁があれば、殺すつもりがなくとも百人や千人を殺すこともある。善事も悪事も心の良し悪しで決まるのではなく、縁で決まってしまう。

心の良し悪しが浄土への往生に関わると勝手に考えるのは本願の不思議な力によって救っていただくということを知らないと言うことだ。

 

 

■わざわざ悪事を働く者

「悪を犯した者を救う本願であるから、悪を犯さなくてはいけない」という誤った考えを起こした者がいた。薬があるからといってわざわざ毒を飲むものではない。
とはいえ、悪を犯すことが往生の妨げになるということでは無い。

 

 

阿弥陀仏の本願は正しい者だけのものではない

もし本願を信じることが出来るのが、正しく生きる者だけだとしたら、私たちは迷いの世界を離れることはできない。
私たちのようなつまらないものであっても本願に出会わせていただいてこそ本当にその本願をありがたく思うことが出来る。

漁師や猟師のように殺生を生業をする者も、商人や農民もみな同じだ。誰でも然るべき縁がはたらけばどんなことでもする。
しかし近頃はまるで善人や正しい人だけが道場に入ったり念仏することができるかのように言う人が出てきた。こういう人たちは見かけは良い行いに励んでるように見せかけるが、内には嘘偽りの心を抱いているものだ。

 

 

■仏の救いに甘えても良い

救いに甘えて作ってしまう罪にも、前世の縁がはたらいている。
良い行いも悪い行いも過去の世からの縁に任せてただ本願のはたらきに身をゆだねてこそ他力であり、救いがある。
阿弥陀仏にどれだけの力があるか知っていれば、自分がどれだけ罪深くても『自分は救われない』などとは思わない。」と唯信抄にもある。
本願に甘える心があるからこそ、他力に身をゆだねる信心も定まっていると言える。

自分の罪悪や煩悩を滅し尽くせば本願に甘える気持ちもなくなるだろうが、それはすでに仏になっているのであり、本願も無用のものになってしまう。

「救いに甘えるのは良くない」と戒めている人々にも煩悩が捨てきれず、清らかでない人が多く見受けられる。これこそ救いに甘えてる状態ではないのか。こうした人々の戒めは考えが幼いと言わざるを得ない。

 

 

 

○感想

「みんな救われている」という教えを逆手にとって「じゃあ悪いことをしても救われるじゃん」と嘯いて悪事を働くような輩が出てくるのも当然、それを戒めるのも当然に見える。
しかし唯円はそういう戒めをする人がむしろ仏の救いの力を信じてないのではないかと言う。
悪に対しては、善の勝利を信じて耐えるしかないということか。

キリスト教でも「信じれば救われるんだから今は悪いことしてもいいだろ」と考える輩もいて、この点なんかで見かけた浄土真宗の僧と神父(牧師?)の対談では最終的に「本質的には全く違うが、直面する問題は同じ」という風な結論だった気がする。うろ覚え。

ところで『縁なくば人を殺すことはなく…』のところで出てくる善事も悪事も本人の意思ではなく前世の行いによるものだという宿業説は信仰生活的には「自分のことすら自分で思うように出来ない。だから他力に全てお任せしよう」という結論で、実際生活的には「だから人には同情しよう、受け入れよう」という意味合いも含まれていたはずだが、今や無関心と組み合わさり社会や環境、病気、性別のせいで苦しむ人に対して「お前が前世で悪い行いをしたんだろ。お前が悪い」と個人の責任に帰する口実にもなっている。本来はもっと奥が深い考えなのに。

 

浄土真宗にしろキリスト教にしろ心の底から「お任せしきる」境地に達するのは本当に難しいだろうな。救われたと確信するには本物の信仰が必要だ。

 

 

歎異抄 (文庫判)

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