穂積陳重『復讐の基礎観念・復讐の沿革』

 

「法の起源に関する私力公権化の作用」二章、三章

 


■復讐の基礎観念

たいていの生物にはその種族的存在を害する攻撃に対し反撃する性質がある。

こと人類に至っては自らの生存を脅かす反対勢力を除去しようとする感覚はほとんど本能的であって、生物のみならず無生物にも反撃し怨恨を晴らすことがある。

復讐は種族的存在を害する他の攻撃に対する反撃であるが、単にその場の危害を撃退するだけではなく、過去の危害についても反撃し、自らの憤怨を慰め、将来の戒めとし、種族の結束を高める口実にもなっている。

復讐は人類の種族保存の基本的美徳に基づくものであるから、(文明国では過去の風習、未開国では現在の風習として、)世界のどの国どの民族でも復讐という現象は一度は通過する。

 

 

■復讐の沿革

復讐の歴史は
・復讐公許時代
・復讐制限時代
・復讐禁止時代
の三つに分けて説明できる。


(一)復讐公許時代
復讐はどの国においても見られるが、日本においては特に長く存在した。
これは武士道、儒教封建制度と法権の未統一の影響である。

武士道において敵討ちは忠臣孝子の義務であり、それを行おうとする者は激励され、果たしたものは罰されるどころか賞賛された。
敵討ちは芝居のテーマとしても人気があり、平民階級にも影響を及ぼした。赤穂浪士の敵討ちがあってからは平民による敵討ちも増えた。復讐を美徳とし、善行とし、賞賛奨励したからである。

赤穂浪士が罰されたのも高官を殺害し治安を害したからであり、復讐したからではない。
儒教においては復讐をもって子弟の義務とし、復讐が忠孝の表現となった。

法の力が弱く生命や財産を保護するのが難しかった時代、あちこちに国が興り統一を欠いた時代にあっては人を殺した者が他国に逃げ込んだ場合、それを制裁する方法がなく、自ら犯人を追跡して復讐する他なかった。逆に復讐を禁止する法規もなかったから、復讐が盛んに行われるようになった。

このように日本ではごく近代まで復讐は、世間ではこれを美徳善行とし、儒教では奨励し、法律は何の制限も無かったので永く行われることになった。
これが一変して制限を加えるようになったのは、種族保存の必要を生じた時代からだった。

 

(二)復讐制限時代
この時代は復讐を禁止はしないが制限を加えることで私闘の弊害を取り除こうとした。ここではじめて自力救済に公権力が加わることになった。

制限①復讐義務者の範囲の制限
制限②復讐責任者の範囲の制限
制限③賠償が復讐の代わりになるようになった
制限④避難所の設置
制限⑤公の許可が必要になった
制限⑥その他の制限


制限①復讐義務者の範囲の制限
原始時代においては種族の一人が殺された場合は一族全員が復讐の義務を負ったが、その範囲は時代とともに次第に縮小して、一家親族が義務者となり、更には最も近い子や兄弟が義務者となるようになった。

制限②復讐責任者の範囲の制限
原始時代においては復讐義務者と同じく、加害者を擁する側も一族全員が復讐に対して戦った。
しかしこれも次第に範囲が縮小し、加害者一人がその責任を負うようになった。

制限③賠償選択
報復は最も自然な自力制裁であって、法の力が弱い時代はほとんど全ての侵害に対して復讐が行われた。
しかし財産に対する侵害は、財産によって償われる風習が生じた。
さらに盗みや傷害に対しても財産による賠償を許すようになり、ついには殺害にも賠償の選択を許すようになった。このような事例は複雑な財産観念を持つ西洋人のみならず、アフリカの部族などにも見受けられる。
しかし武士道においては金銭を得て復讐を思いとどまるのは重大な悪事と考えられた。

④避難所の設置
避難所は復讐の乱発を防ぎ、自力制裁から公権力に移行させる方法の一つだった。
旧約聖書にも、殺人者が逃げ込み、事情を陳述し、長老がその者の非なしを認めれば入場を認めて復讐を免れることができる避難市なる町が設けられたことが記されている。
しかしその殺人者に非があった場合、嘘を言って入場した者の場合は復讐者に引き渡すことになる。こうした風習は日本や中国には見当たらない。

⑤公許の必要
復讐に公権力の許可が必要になったのも復讐禁止の端緒である。
徳川時代は復讐を公認し、美徳善行とした上で届出が必要だった。しかし届出無しに復讐をしても正当な敵討ちであれば咎めはなかった。

⑥その他の制限
復讐は忠孝と武勇の表現であったので復讐を禁止にする法がなかったのは当然だが、治安の悪化と法の執行が妨害される弊害があったために、場所や範囲に制限が加わるようになった。

復讐の風習にも、自力制裁から公権力による制裁に(復讐制限時代から復讐禁止時代へ)移行する際の、両方が入り混じった過渡期があった。国家が被害者の代行を務めることを人民に周知させ、制裁を個人から公権力に徐々に移行させるための方法が出来た。

ⅰ.国家が殺人者を逮捕し、これを被害者の親族に引き渡し思う存分制裁を加えて怨恨を晴らす
ⅱ.裁判所は殺人事実の宣告のみを行い、刑は誰が執行してもしなくても良い。しかし大抵は被害者遺族が行い、殺人者を殺さない場合は非難された。
ⅲ.国家が殺人者を逮捕し、被害者遺族が刑を執行する。
ⅳ.復讐を一つの儀式として行う。(例えば明治維新の時代に、遺族による復讐は許されなかったが、遺族が殺人者の介錯役に名乗りを上げ、それは許可された事例があった。)


(三)復讐禁止時代

※この小見出しは中国と日本の難しい書き下し文による議論がめちゃくちゃ引用されてて意味がわからない上、この時代こそ本書が書かれた時代なので議論の紹介に終わって結論らしい結論は出ていない。しかし要は

復讐は天誅や斬奸を名乗る暗殺の大義名分となってしまった。復讐が復讐を呼び拾集がつかない。ここまできたら急いで法権を統一し、復讐禁止に関する法律を特に定めるしかなかった。

という感じか

 

○感想
この『法の起源に関する私力公権化』は後の『復讐と法律』の前段階の骨格みたいなもの。それでも復讐にまつわる古今東西の事例がめちゃくちゃ引用されててお腹いっぱい。博学すぎる。
『復讐と法律』の方はこの骨格に肉付けされて内容がさらに充実。

敵討ち、達成できれば名誉だが、その難度は相当高く、仇の首を取るまで帰郷できないがその仇がなかなか見つからない、または返り討ちにあったなどでお家がぶっ潰れた事例も多いと南條範夫の小説で読んだ。

「現代の刑罰では生ぬるい」と憤りを覚えるような事件がたまに起きる。でも「被害者遺族に犯人を引き渡して恨みをはらさせろ」というのもまた酷な話。

なんだかんだ、多くの反省の上に今の法律があるわけか。

 

 

復讐と法律 (岩波文庫 青 147-3)

復讐と法律 (岩波文庫 青 147-3)