カール・ヒルティ『忍びうる者に勇気あり』


『幸福論第三部』

 


はじめに。この世は苦しみの場所か。なぜ善人も苦しむのか。

 

この世は喜びと楽しみの場所というよりおびただしい苦しみのある涙の谷に見えるが本当にそうか。

罪は裁きによる苦しみを生むが、罪を持たないのに苦しむ人もいる。「なぜこの世では善人達もなお、多くの苦しみをなめなければいけないのか」という問いがここで生まれる。
どうすれば幸福を見いだせるか、どうすれば苦しみを最もよく背負っていけるか、という点を明らかにする上でこの問いは大切である。

苦しみをいかに避けるか、取り除くかではなく、「なぜ苦しみは善い人間にとって良いものか」ということが問題である。

 

 


 

この問題についてヨブ記の結末はこうである。ヨブは敬虔ではあったがやや独善的で、幸福な生活に浸りながらその不安定と濫用を恐れていた。しかしヨブは幾多の災難をくぐり抜け、幸福を乗り越えた人間になった。こうして神は「背負いきれないとの懸念なしに」ヨブに祝福を注ぐことができた。

善人が苦しみによってさらに優れた者になる。

善人は苦しみにより、事物からの執着やどうでも良い付き合いや用事から自由になり、自分の財産や生命さえも失うことを恐れなくなる。
一方で苦しんだことがなく苦しみを理解しない人間は凡庸さから抜け出せず、苦しみに対する恐怖からも逃れられない。

だから、「忍びうる者に勇気あり」というフランスの格言は真実である。
偉大な事柄のために苦しむ光栄を知らない者は、勇敢さも幸福も知らない。

神は、善良で勇敢な人が神の助力によっていかなる困難にも耐え得るか実例を示す場合、善人が時代に飲み込まれる危険がある場合に、あえて善人に誘惑や困難を与える。

パウロは善人の苦しみについて正当な理由を二つ挙げている。

・神からの慰めを受け、他の人々を慰められるようにするため。
・自分の力に頼らず、神を頼りにするため。

苦しみは人間を強くするか、打ち砕くかである。人は幸福な時は自分の素質を知ることができない。苦しんで初めて自分を知る。

 

 

 

苦しみについての実際的経験
・苦しみは長くは続かない。極めてつらい苦しみも三日もすれば無くなるか、軽減される。だから苦しみが無限に続くと思われるような空想は取り除かなくてはならない。
・苦しい時は決して自問自答してはならず、祈りを通して神と語り合わねばならない。
・人間を恐れてはいけない。また怒りや憎しみをのさばらせてはいけない。これらは苦しみを増すだけでまったく無益である。

去っていく苦しみに名残惜しさを覚える場合は、苦しみはその務めを十分に果たしたと言える。

神を思いながら苦しむことは、神なしに生き、神なしに苦しむより優っているということは常にはっきりさせること。

苦しみが神から贈られたものである場合、以下のような良い性質がある。

・その苦しみは、耐えられる程度のもの
・その苦しみが有益であるという愉快な気分
・その苦しみは決意さえすれば克服できる
・その苦しみは精神を開放し、新しい力を与える
・一旦克服された苦しみは同じようには戻ってこない。つまりこの苦しみのあった方向について幸福が確約されたと考えて良い

人間は苦しみによって進歩し、節度を教えられる。

ドイツ語の「苦しみ:Leiden」の元の意味は「試す」つまり「積載力試験」である。
これによって試されたものは先へ進んで良いかその力が明らかにされる。
だから、試練がやって来てもそれは絶望や諦念を促すためのものではなく「耐えれば大きな宝が与えられる」ということである。

 

 


 

以上が「善人の苦しみ」の概要。
さらに付け加えるとすれば、健全な良識を持った人は他人の苦しみを見るだけでも自分の境涯がまだまだ耐えやすいと十分に納得することができる。

苦しみの中にあって最も苦痛なことは、苦しみの原因である運命や他人に憤りを持つことである。このせいで小さな苦しみも耐え難いほど強くなる。

その反面、どれだけ大きな苦しみでもそれがなんらかの目的を持って贈られたものだと考えれば耐えやすくなる。

時には何も出来ず、苦しみ、死ぬしかないという状況におかれることもありえる。その場合でも神と来世を信じられる者にとって死は大きな禍いではない。

苦しみは平常時の浅薄な考えの殻を破り、精神的な理解を容易にし、人間関係を正しく評価できる様にする。このように苦しみは人間を深め、透徹した人柄を作る。
しかもこれらはどんな努力でも得られない。この点で苦しみはあらゆる努力に勝ると言える。
普通では克服できなかった様々な性癖が苦悩の灼熱の中で熔かし去られる。

しかし、やはり苦しい時には助けを求めなければならない。忍耐も良い。神にすがるのも良い。医者や世知に長けた者に助言を求めるのも良い。
変えられることは変え、変えられないものは耐えるが良い。

苦しみは克服され、活用されねばならない。

苦しみだけが人を真に謙遜にする。
最良の素質を持つ人でも苦しみを持たなければ凡庸な者になる。

善人の苦しみは神に選ばれたことの証明であり、勇敢さを示すための機会である。

 

 


最後に。神の助けと自分自身の勇気。

 

苦しみの中で与えられる慰めは人生の中で最も素晴らしい良いものの一つである。
こうした体験をしたことのない人は、人間の魂がどのように高められるかを知らない。

苦しみの中にいる時、人は最も神に近づいている。

このように苦しみは有益であるが、悲しみは無益で有害である。

繰り返しになるが苦しみの問題について言えることは「神とともにあって苦しむ」ということに尽きる。
神は我々の中の卑小なものを焼き尽くす火であり、「恐れるな。ただ信じよ」は苦しむ人のための道しるべとなる言葉である。

しかし「苦しみの利益」についての立派な考えは、苦しみの最中には役に立たないのも確かだ。その代わり、苦しみの前後(苦しみへの心構えや、苦しみが去りつつある時の回復)のためには役に立つ。

「苦しみの最中にあって恐れず、神を信じる」このような決意をしていてもなお絶体絶命の危機に陥り「さあ、この世に別れを告げて死ぬがよい」と言われているかのような瞬間がある。これに対する答えはヨブ※1やキリストの答え※2でなければならない。
※1 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。 しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。ヨブ記 2:9-10
※2 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。マタイによる福音書 4:10

したがって、苦しみの最中にあっても、できるだけ自信を持ち、大いに勇敢であれ。そうすれば神の助けが現れる日がやってくる。しかし万一、神の助けが来ず、不安で圧倒されたとしても気晴らしや悲観や怒りや無気力に逃げず、自分自身の勇気と善良さを持って戦う方がずっと良い。なぜなら人はいつでも自分自身で生きねばならないし、自分の在り方がなによりも自分自身の幸福を決めるからである。

 


○感想

ヒルティの「苦痛論」も結局はキリスト教的な神への帰依が結論なので大抵の人には物足りない内容かも。『幸福論第一部』ではまだ神抜きの実践的知識が多かったが第三部ともなるといよいよ宗教色が豊かになってくる。
それでも「苦痛の中で自分を知る」とか「苦痛に感情を入り込ませるとより一層危険」という部分などは宗教に関係なく、生活上わりと身に覚えのある話。しかもスイスの聖人と名高いヒルティでさえこんなことに身に覚えがあるとは、意外と親しみが持てるじゃないか。
苦痛に対して「これは有益だ」と言うのはいかにもツライ。不可能に近い。しかし言うことができればその時…?
理不尽な苦しみについての宗教的見解はヨブ記が決定版か。
信仰の人ヨブに対して、神の許可を得た悪魔があれこれとシャレにならん不幸をふっかけてその信仰を試すというのがその内容。その驚愕の結末は自分の目で確かめよう!(説明できるほどには理解できなかった)

仏教的には苦痛はホントに単なる苦痛で別に人を良くも悪くもしない。ただ苦痛なだけ。早く悟って抜け出そうぜ。と言う感じか。
ストア主義的には「苦痛に耐えられなくなったら、いつでも出口は開いている(いつでもこの世から出ていけばいい)」という感じなので余計に血も涙もない。自殺是認はちょっとストイックすぎるかな。

苦痛といかに付き合うかは一生つきまとう問題だ。苦痛だ。

 

 

 

幸福論 第3部 (岩波文庫 青 638-5)

幸福論 第3部 (岩波文庫 青 638-5)

 

 

 

ゲーテ『自分の好きなように世界を知るがいい』


ゲーテ格言集』科学、自然、二次元について


自分の好きなように世界を知るがいい。世界は常に昼の側と夜の側を持っているだろう。
「格言と反省」から
新潮文庫ゲーテ格言集』68ページ

 

 

○感想

世の中に幸不幸はなく、あるのは出来事についての自分の判断のみ。ということはエピクテトスがすでに語っている通り。ゲーテの表現はもっと詩的。

世の中の見方といえば、例えばフィクション、ノンフィクションに関わらずあらゆる作品は世界の多様な面のほんの一部を切り取ってわかりやすく提示する役割がある。
映画一つ見るにしても鬱映画ばかり見て世の中に絶望するか、ノーテンキなラブコメ映画ばかり見て世の中をバラ色と見るか。はたまた冷水と熱湯に交互に手を突っ込んでなんかを鍛えるがごとくそれらの映画をバランスよく見てコントラストを楽しむか…。

まったく驚きなのはこの同じ世界から全く相反する出来事が生まれてしまう底知れなさ。心温まる人情モノの舞台の裏側で猟奇殺人が同時進行することもありえてしまう。
同じ時間同じ空間でも明部と暗部が同じくらいあるとしたら、まさしくどちらに焦点を当てるかはその人次第。これはポジティブ思考とかネガティブ思考よりも広い意味を持つ。

自分の生活が暗いと思えても明るい面もある。逆も然り。「情報を選ぶことは人生を選ぶことだ」とどっかで読んだが本当にその通り。

世の中の明るい面と暗い面、ゲーテの言う通りあくまでも好きなように見るべき。ただ気になるとか知っておいたほうがいいかもと言う理由であえて気の進まない方に注目する必要はない。

 

 

ゲーテ格言集 (新潮文庫)

ゲーテ格言集 (新潮文庫)

 

 

 

トマス・ア・ケンピス『善良で温厚な人物について』

 

第二巻第三章

 


■1

人は自分を平安に保ってはじめて、他人に平和をもたらすことができる。温厚な者は学問を積んだ者より益するところが多い。
激情の人は善を悪に転じさせ、簡単に悪を信じる。しかし善良で温厚な人は全てを善に転じさせる。
平安の中にいる者は疑うことをしない。しかし不満と動揺の中にいる者はあらゆるものを疑い、安らぎを知らず、他人が安らぐことも許さない。このような者は言ってはならないことを言い、した方がいいことをしないでおく。他人のすることばかりに注意し、自分がすべきことには注意しない。
まずは自分について熱意を持つなら、他人にやかましくしても正当だとみなされるだろう。

 


■2

人は自分のことについてはうまく弁解をするが他人の弁解には耳を貸さない。むしろ自分を非難し、他人の咎は許してやる方が正しい。他人の堪忍を望むなら、まず他人に対して堪忍することだ。

真の愛は自分以外の誰に対しても怒ったり恨んだりすることはない。

大抵の人は善良で柔和な人との交際を好み、自分と同じ考えの人を愛する。だから、頑固な人、心のねじれた人、考えの違う人と穏やかに暮らしていけるというのは大きな恵みであり、極めて男らしい生き方である。

 


■3

自分を安らぎの中に保ちながら、他人とも穏やかにやっていく人達がいる。一方で自分も安らぎを持たず、他人の安らぎも許さない人達もいる。こうした人たちは他人にとっても厄介であるが、それ以上に自分自身にとって厄介な重荷である。

この世において安らぎは、無知や鈍感より忍耐に求めるべきだ。よく忍耐することを学んだ者は大いなる安らぎを保てる。
そういう者こそ自己にうち克った者、キリストの友である。

 


○感想
この章では安らぎ is 大勝利であることを繰り返し説いてるが、そのための方法は他の章で散々説明しているから書いてない。要は神に信頼しろということ。そして忍耐、忍耐、忍耐…。

例えば自分のバックに名の知れた超大物がついてて「何があっても絶対に俺が良い方向に取り計らってやるから安心しろ」と言ってくれるならこれほど心強いことはない。
それで宗教者にとっては神が守護者だから人間の超大物でさえ比較にならない。自分にこうした守護者がついてると心から信じられればトマス・ア・ケンピスの言うような善良さと温厚さを身につけるのも余裕。
あとこの章では書いてないが旧約聖書には「復讐は神に任せろ」とも書いてある(例えば申命記32章35節)。復讐も戦いも人任せ(神任せ)にできるならあとはますます善良で温厚になるしかない。

人は金だの権力だのを追い求めるが、それがなんのためかというと結局のところ安心したいから。哲学や宗教を追求する人も同じ。人間の究極目標は安心!これに尽きる。
今この瞬間から安心できるなら金やら何やらを追いかける必要もなくなる。それを可能にするのが完全な信仰というわけだ。

 

 

キリストにならいて (岩波文庫)

キリストにならいて (岩波文庫)

 

 

 

孔子『知ってるというのは好むのには及ばない』


巻第三 雍也第六 二十節

 


子曰、知之者不如好之者、好之者不如樂之者。

 

先生が言われた、「知っているというのは好むのには及ばない。好むというのは楽しむのには及ばない。」


岩波文庫論語』84ページ

 


○感想
ですよね。
後半が特に重要。楽しんでるってのは幸福の最大の目安だな。
自分では好きだと思ってても楽しめてないなんてことは趣味だとザラ。

ところで「自分が本当にやりたいことは何か」などで迷った時は理屈ではなく感情に従っておけば大抵間違いがないらしい。というか少なくとも後悔はしないらしい。

いっちょ楽しいことやったろう。

 

 

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

 

 

 

トマス・ア・ケンピス『人生の悲惨を顧みて』

 


『キリストにならいて』第一巻二十二章

 


◼︎1

人は心を神に向かわせなければ惨めさを免れない。

思い通りにならなかったといってなぜ思い乱れるのか。何事も思い通りになる人間というのは一人もいない。

帝王だろうと法王だろうと、この世では何かの難儀や苦悩を持たない人は一人もいない。ではこの世で幸せな者とは誰のことか。それは神のために万事を耐え忍ぶ者である。

 

 

◼︎2

力無き人々はこの世の財産や権力を羨む。しかし天上の富に目を向ければ、目の前のものはかりそめのつまらないものにすぎず、しかもそれらは全く不確かで厄介な荷物でもあることがわかる。しかもそれらの所有者は常に心配と恐れ無しにはすまされない。

幸福のためには移ろいやすいものを数多く所有するのではなく、ほどほどで十分だ。


地上での生そのものが惨めさの原因である。

しかも、より高い精神的な生活に入った人ほど現在の生が苦悩をもたらす。なぜなら人間の頽廃や欠陥をより強く感じるようになり、飲食、労働、休息、その他の自然の要求に振り回されることに大変な惨めさを感じ、それらから自由になることを望むようになるからだ。

 

 

■3

人間の内面は、地上においては肉体の要求により激しい悩みを与えられる。

ある預言者は言っている。「私が必要とするものから私を解放したまえ、主よ」と。

しかし自分の惨めさを悟らない者こそ不幸である。この世にしがみつき、神の国のことは全く考えない者のように、この惨めな朽ちるべき生命を愛する者はいっそう不幸である。

 

 

■4

地上の肉体に属するものに耽溺している者達は正気をなくしている。

こうした惨めな人々も最期には、これまで執着してきたものがいかに卑しくつまらないものか痛切に悟るだろう。

しかし神に属する聖徒達やキリストに従う全ての人は、この地上のことには心をとめず、全ての望みを天上の富に注いでいるのである。

目に見えるものへの執着によって奈落の底へ引きずられないよう、より高いものへと進もうとする信念を捨ててはならない。人はそのための機会と時間を持っている。

 

 

■5

なぜ今決心をしないのか。

今すぐ立ち上がり、取り掛かってこう言いなさい。「今がやる時機だ、今こそ闘う時だ、今こそ改めるのに最もよい時機だ」と。

快適な場所に着くまでにはあらゆる試練を通り過ぎなければならない。自分を強制することなしには自分の欠陥には打ち勝てない。

人は脆い肉体を背負ってる間は、罪をもたずにいることはできず、倦怠と悲しみ無しに生きることもできない。

人は惨めさから逃れ、安らぎを持ちたく思う。しかし人は罪ゆえに無垢の心を失い、真の幸福をも無くしてしまった。

だから人は忍耐を保ち、この不正と死が生命に摂受されるまで神の慈悲を待つべきである。

 

 

■6

いつも邪悪へ傾こうとする人間のいかに脆いことか。今日告白したその罪を、明日また犯す。今決心しておきながら、一時間後には何も決心しなかったかのように振る舞う。

人はこのように脆く不確かなものであるから、かえって自分を偉いものと考えず、謙遜に生きることが出来るはずだ。

神の恩寵によりやっと身につけられたものが、過怠のためにたちまちにして失われてしまうことがある。

 

 

■7

このように気が緩むとすれば人は最後にはどうなってしまうのか。

ふだんの言行になんらの聖性が現れないのに、すでに平和と安心を得たかのように落ち着こうとするならば禍だ。

人は将来、改まる可能性があり、進歩する見込みがあるなら、新入りの修道士と同じように優れた行状を教え込まれる必要がある。

 

 

○感想

トマス・ア・ケンピスはガチの修道士なので言うことがガチ。

キリスト教では人はあまりに無力ゆえ自力救済は全く考えられず、すべて神に委ねるしかないと言う思想だが、こういう修道院的な克己はある。

この世を軽蔑するところまではストア主義と共通するが、克己の先に神の恵みがあるかどうかがストア主義との違いの一つ。言ってしまえばストア主義の厳しい克己の末のご褒美といえば達成感と優越感くらいだが、キリスト教のソレは神の恩寵、天上の富、永遠の命なので比べ物にならない。

逆に言えば、克己に興味があるが神や天の国は信じられないというならストア主義の方が向いてる。

 

 

キリストにならいて (岩波文庫)

キリストにならいて (岩波文庫)

 

 

 

マルクス・アウレリウス『最も良い復讐の方法』

 

『自省録』第六章七節

 

 

もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。
岩波文庫『自省録』82ページ

 

 


○感想
幸せになるのが最高の復讐とか言うが、それよりはこっちの方がしっくりくる。しかも簡単。ストア主義的な超然と見下ろす態度の有効活用。

「やり返すな」は古今東西で言われてるが、「出された食事に手を出さなければ主人の元に返っていくのと同様、吐き出された悪口に反応しなければそれは吐き出した主に返っていく」というブッダとアッコーサカの有名な逸話にも通じる(しかし出典見当たらず。パーリ仏典?)。

この短い格言ではブッダの逸話から一歩進んで、その場でやり返すことを制するのみならずその後の生活にまで及ぶ規律になっている。「人のふり見て我がふり直せ」「他山の石」の意も内包してる感じ。「俺はこいつとは違う」というストア的傲慢さもやはり感じる。

キリスト教では有名な「右の頬を打たれたら左の頬も差し出しなさい」をはじめ「重荷を1km運べと言われたら2km運んであげなさい」「敵を愛せ」など積極的に試練に身を晒し忍耐することを推奨してる。当然「自分で復讐する・どうやって復讐するか」という考えは無い。もし相手が復讐されるに値する人間なら、それは神にお任せ。なんといっても旧約の神は間違いなく復讐の神。

ストア的超然とした態度を堅持するのは精神的にタフじゃ無いと難しいがキリスト教的忍従の態度はむしろ弱い人間に向いてる。そして人間のほとんどが弱いので、キリスト教の方が世界宗教になったのも当然か。

悪意に対する対処法で仏教、キリスト教、ストア主義で結構くっきり性格が出てるな。
みんな違ってみんな良い。全部同時に試しても行動の上では矛盾しないしいつでもどれでも好きなのを試せば良い。

 

 

 

自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)

 

 

 

孔子『自分で考えるより教わる方が早い』


巻第八 衛霊公第十五 三十一節

 

 

子曰、吾嘗終日不食、終夜不寝、以思、無益、如不學也

先生が言われた、「わたしは前に一日じゅう食事もせず、一晩じゅう寝もしないで考えたことがあるが、むだであった。学ぶことには及ばないね。」

岩波文庫論語』220ページ

 


○感想
どうなんだこれは。巷でよく言われる「自分の頭で考えろ」とは全然違うじゃないの。

哲学など答えが出ない問題は自分で考えぬくのが何より大事だと思うので孔子が何と言ってても「少し読み、多く考える」といったやり方が当てはまると思う。

しかし数学や化学みたいに答えのあるものはすでに出来上がってる公式や体系をガンガン取り入れていくのが効率の良い学びなのは間違いない。
スポーツや芸術なんかの非言語的な技術でも、モノにしたくなったらとにかく人に教えてもらって基礎になる「型」を仕込んでもらうのが絶対に良い。初めから自己流でがんばると結構な時間を無駄にする。この点では孔子の言う通り。多分孔子の時代の学問はこういうスポ根的な「すでに出来上がった型を仕込む」ものだったんだろうし。

 

自分で考えてもなかなか答えが出ないが、人に聞けばあっさり答えが返ってくるということはめちゃくちゃありそうな話。問題は「何を人に聞いて、何を自分で考えるか」だが…まず手始めにこの問題自体を人に聞いたり自分で考えたりして学びのコツを掴むのもよさげだ。

 

それにしても孔子ほどの人間でもこんなふうに無駄を体験するんだな。もしかしたら「食事もせず、寝ることもせず」の部分がダメなのかも。人間の脳は考えてない時に一番良く活動してるらしいから。

名案を思いつきたければ栄養をとってよく休もう。

 

 

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)