トマス・ア・ケンピス『人生の悲惨を顧みて』

 


『キリストにならいて』第一巻二十二章

 


◼︎1

人は心を神に向かわせなければ惨めさを免れない。

思い通りにならなかったといってなぜ思い乱れるのか。何事も思い通りになる人間というのは一人もいない。

帝王だろうと法王だろうと、この世では何かの難儀や苦悩を持たない人は一人もいない。ではこの世で幸せな者とは誰のことか。それは神のために万事を耐え忍ぶ者である。

 

 

◼︎2

力無き人々はこの世の財産や権力を羨む。しかし天上の富に目を向ければ、目の前のものはかりそめのつまらないものにすぎず、しかもそれらは全く不確かで厄介な荷物でもあることがわかる。しかもそれらの所有者は常に心配と恐れ無しにはすまされない。

幸福のためには移ろいやすいものを数多く所有するのではなく、ほどほどで十分だ。


地上での生そのものが惨めさの原因である。

しかも、より高い精神的な生活に入った人ほど現在の生が苦悩をもたらす。なぜなら人間の頽廃や欠陥をより強く感じるようになり、飲食、労働、休息、その他の自然の要求に振り回されることに大変な惨めさを感じ、それらから自由になることを望むようになるからだ。

 

 

■3

人間の内面は、地上においては肉体の要求により激しい悩みを与えられる。

ある預言者は言っている。「私が必要とするものから私を解放したまえ、主よ」と。

しかし自分の惨めさを悟らない者こそ不幸である。この世にしがみつき、神の国のことは全く考えない者のように、この惨めな朽ちるべき生命を愛する者はいっそう不幸である。

 

 

■4

地上の肉体に属するものに耽溺している者達は正気をなくしている。

こうした惨めな人々も最期には、これまで執着してきたものがいかに卑しくつまらないものか痛切に悟るだろう。

しかし神に属する聖徒達やキリストに従う全ての人は、この地上のことには心をとめず、全ての望みを天上の富に注いでいるのである。

目に見えるものへの執着によって奈落の底へ引きずられないよう、より高いものへと進もうとする信念を捨ててはならない。人はそのための機会と時間を持っている。

 

 

■5

なぜ今決心をしないのか。

今すぐ立ち上がり、取り掛かってこう言いなさい。「今がやる時機だ、今こそ闘う時だ、今こそ改めるのに最もよい時機だ」と。

快適な場所に着くまでにはあらゆる試練を通り過ぎなければならない。自分を強制することなしには自分の欠陥には打ち勝てない。

人は脆い肉体を背負ってる間は、罪をもたずにいることはできず、倦怠と悲しみ無しに生きることもできない。

人は惨めさから逃れ、安らぎを持ちたく思う。しかし人は罪ゆえに無垢の心を失い、真の幸福をも無くしてしまった。

だから人は忍耐を保ち、この不正と死が生命に摂受されるまで神の慈悲を待つべきである。

 

 

■6

いつも邪悪へ傾こうとする人間のいかに脆いことか。今日告白したその罪を、明日また犯す。今決心しておきながら、一時間後には何も決心しなかったかのように振る舞う。

人はこのように脆く不確かなものであるから、かえって自分を偉いものと考えず、謙遜に生きることが出来るはずだ。

神の恩寵によりやっと身につけられたものが、過怠のためにたちまちにして失われてしまうことがある。

 

 

■7

このように気が緩むとすれば人は最後にはどうなってしまうのか。

ふだんの言行になんらの聖性が現れないのに、すでに平和と安心を得たかのように落ち着こうとするならば禍だ。

人は将来、改まる可能性があり、進歩する見込みがあるなら、新入りの修道士と同じように優れた行状を教え込まれる必要がある。

 

 

○感想

トマス・ア・ケンピスはガチの修道士なので言うことがガチ。

キリスト教では人はあまりに無力ゆえ自力救済は全く考えられず、すべて神に委ねるしかないと言う思想だが、こういう修道院的な克己はある。

この世を軽蔑するところまではストア主義と共通するが、克己の先に神の恵みがあるかどうかがストア主義との違いの一つ。言ってしまえばストア主義の厳しい克己の末のご褒美といえば達成感と優越感くらいだが、キリスト教のソレは神の恩寵、天上の富、永遠の命なので比べ物にならない。

逆に言えば、克己に興味があるが神や天の国は信じられないというならストア主義の方が向いてる。

 

 

キリストにならいて (岩波文庫)

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