トマス・ア・ケンピス『善良で温厚な人物について』

 

第二巻第三章

 


■1

人は自分を平安に保ってはじめて、他人に平和をもたらすことができる。温厚な者は学問を積んだ者より益するところが多い。
激情の人は善を悪に転じさせ、簡単に悪を信じる。しかし善良で温厚な人は全てを善に転じさせる。
平安の中にいる者は疑うことをしない。しかし不満と動揺の中にいる者はあらゆるものを疑い、安らぎを知らず、他人が安らぐことも許さない。このような者は言ってはならないことを言い、した方がいいことをしないでおく。他人のすることばかりに注意し、自分がすべきことには注意しない。
まずは自分について熱意を持つなら、他人にやかましくしても正当だとみなされるだろう。

 


■2

人は自分のことについてはうまく弁解をするが他人の弁解には耳を貸さない。むしろ自分を非難し、他人の咎は許してやる方が正しい。他人の堪忍を望むなら、まず他人に対して堪忍することだ。

真の愛は自分以外の誰に対しても怒ったり恨んだりすることはない。

大抵の人は善良で柔和な人との交際を好み、自分と同じ考えの人を愛する。だから、頑固な人、心のねじれた人、考えの違う人と穏やかに暮らしていけるというのは大きな恵みであり、極めて男らしい生き方である。

 


■3

自分を安らぎの中に保ちながら、他人とも穏やかにやっていく人達がいる。一方で自分も安らぎを持たず、他人の安らぎも許さない人達もいる。こうした人たちは他人にとっても厄介であるが、それ以上に自分自身にとって厄介な重荷である。

この世において安らぎは、無知や鈍感より忍耐に求めるべきだ。よく忍耐することを学んだ者は大いなる安らぎを保てる。
そういう者こそ自己にうち克った者、キリストの友である。

 


○感想
この章では安らぎ is 大勝利であることを繰り返し説いてるが、そのための方法は他の章で散々説明しているから書いてない。要は神に信頼しろということ。そして忍耐、忍耐、忍耐…。

例えば自分のバックに名の知れた超大物がついてて「何があっても絶対に俺が良い方向に取り計らってやるから安心しろ」と言ってくれるならこれほど心強いことはない。
それで宗教者にとっては神が守護者だから人間の超大物でさえ比較にならない。自分にこうした守護者がついてると心から信じられればトマス・ア・ケンピスの言うような善良さと温厚さを身につけるのも余裕。
あとこの章では書いてないが旧約聖書には「復讐は神に任せろ」とも書いてある(例えば申命記32章35節)。復讐も戦いも人任せ(神任せ)にできるならあとはますます善良で温厚になるしかない。

人は金だの権力だのを追い求めるが、それがなんのためかというと結局のところ安心したいから。哲学や宗教を追求する人も同じ。人間の究極目標は安心!これに尽きる。
今この瞬間から安心できるなら金やら何やらを追いかける必要もなくなる。それを可能にするのが完全な信仰というわけだ。

 

 

キリストにならいて (岩波文庫)

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