マルクス・アウレリウス『まっすぐでいるか、もしくは…』


第七章十二節

 


まっすぐでいるか、もしくはまっすぐにされるか。

岩波文庫『自省録』104ページ

 

 

 

○感想

これほどシンプルで有無を言わせぬ規律は他にはない。人から言われる前にとっとと正しく生きろという解釈ができる。

個人的に最大の関心ごとの一つである「やらされ感」の克服にも通じそう。どうせいずれはそうならなきゃいけないのだからとっととそうなれ、と。

 


ところで聖書では

曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。

伝道の書 1章15 節

とある。単なる比喩だとしても比べたくなる表現だ。ちなみに聖書の方は人生に絶望した人間が嘆いているという形式の一部分。この後色々と絶望的な文言を並べ立てた後に「だから、神にお任せしよう」と続く。

ストア主義では克己!克己!さっさと克己!の精神なのでまっすぐになる、ならないではなく、まっすぐにする。そのために努力する。という非常に厳しい行き方。やはり克己の精神と相性のいい若者か、鉄の意志を持つ精神的エリートにしか向いてない。

キリスト教的に言えば「まっすぐにしてもらえるように、神様に祈ろう」という感じ。これはこれでありだが向上心のある人には物足りないのも確か。

ヒルティは「老いて心が円熟してきたらキリスト教が最高だが、若くて心が燃えていて、信仰が持ちにくい時期はストア主義によって精神を養うのも良い」と勧めている。

実際、キリスト教ではギリシャ・ローマの思想は全部異教徒どもの例のアレという扱いだったが、ストア主義は根底の思想は違っても行動規範が共通するところがあるらしく、概ね好意的に吸収されてるようだ。

 


さらに余談だが『伝道者の書』は、イスラエル王国が最高に繁栄してた時のソロモン王が著者(という設定)で、こんだけ富と権力があっても人生は虚しい、と嘆く内容。

ローマ帝国がピークだった頃の皇帝アウレリウスの『自省録』と著者の立場と感じている絶望が似てる。読み比べるとユダヤ教(キリスト教にも共通)とストア主義の苦悩への対処の違いがわかりやすいかも。

 

 

自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)