マルクス・アウレリウス『まっすぐでいるか、もしくは…』


第七章十二節

 


まっすぐでいるか、もしくはまっすぐにされるか。

岩波文庫『自省録』104ページ

 

 

 

○感想

これほどシンプルで有無を言わせぬ規律は他にはない。人から言われる前にとっとと正しく生きろという解釈ができる。

個人的に最大の関心ごとの一つである「やらされ感」の克服にも通じそう。どうせいずれはそうならなきゃいけないのだからとっととそうなれ、と。

 


ところで聖書では

曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。

伝道の書 1章15 節

とある。単なる比喩だとしても比べたくなる表現だ。ちなみに聖書の方は人生に絶望した人間が嘆いているという形式の一部分。この後色々と絶望的な文言を並べ立てた後に「だから、神にお任せしよう」と続く。

ストア主義では克己!克己!さっさと克己!の精神なのでまっすぐになる、ならないではなく、まっすぐにする。そのために努力する。という非常に厳しい行き方。やはり克己の精神と相性のいい若者か、鉄の意志を持つ精神的エリートにしか向いてない。

キリスト教的に言えば「まっすぐにしてもらえるように、神様に祈ろう」という感じ。これはこれでありだが向上心のある人には物足りないのも確か。

ヒルティは「老いて心が円熟してきたらキリスト教が最高だが、若くて心が燃えていて、信仰が持ちにくい時期はストア主義によって精神を養うのも良い」と勧めている。

実際、キリスト教ではギリシャ・ローマの思想は全部異教徒どもの例のアレという扱いだったが、ストア主義は根底の思想は違っても行動規範が共通するところがあるらしく、概ね好意的に吸収されてるようだ。

 


さらに余談だが『伝道者の書』は、イスラエル王国が最高に繁栄してた時のソロモン王が著者(という設定)で、こんだけ富と権力があっても人生は虚しい、と嘆く内容。

ローマ帝国がピークだった頃の皇帝アウレリウスの『自省録』と著者の立場と感じている絶望が似てる。読み比べるとユダヤ教(キリスト教にも共通)とストア主義の苦悩への対処の違いがわかりやすいかも。

 

 

自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)

 

 



パスカル『人に好印象を与えたいなら…』

 

四四節


君は人からよくおもわれたいか。そうであるなら君のよさを人に語ってはならない。
新潮文庫パンセ上巻37ページ

 

○感想
まさしく!
第一、自分の良さは自分じゃわからんものだし、もし本当にわかっててもそれを強調すれば台無しになるのは明白。

「俺はイケメンだ」「俺は金持ちだ」「俺は性格がいい」
…うーん、好感度上げるための主張としては全部アウトだな。鏡に向かって自分に言い聞かせるだけなら良いかもしれないが。最悪なのはダメ人間にありがちな「俺の境遇、他の人間なら耐えられずにとっくに死んでる」みたいな無根拠かつ後ろ向きな主張。これも自分に言い聞かせるだけならギリギリありかもしれないが人に認めてもらうためのセリフとしては完全に逆効果。

SNS全盛の大自己主張時代にはこういう自己宣伝の罠に陥ってる人は結構多い。
では人から認められたいときはどうすればいいか?
黙って、行動と結果で示すのが一番かっこいいし効果的。
宣伝しながら行動と結果を出すのもかっこいいが、同時に反感も買いそう。やっぱ黙ってやるのがいいな。

行動も結果も出さず認めてもらうのは無理っぽい。そんな方法思いつかないから、口先だけで認めてもらおうとする考えはたしかに誘惑的。実際それをやるとこの格言の通りかえって嫌われるが、インスタグラムみたいに写真で間接的に語るのはまだマシなやり方かも。

とにかく、こういう逆説的な真理は好きだ。
パスカルはその他のモラリストと違ってそこまで皮肉屋じゃないがこういう逆説は光る。
やっぱりプルタークモンテーニュからの著述家の系譜はどれも面白い。

フランスモラリストの著作は「趣味は人間観察」とかいってるサブカルクソ野郎達にぜひ読んでもらいたい皮肉屋のねじくれた心を満足させること間違いなし!

 

パンセ 上巻―冥想録 (新潮文庫 ハ 4-1)

パンセ 上巻―冥想録 (新潮文庫 ハ 4-1)

 

 

 

ラ・ブリュイエール『最も願われるものはなかなかやってこない』

カラクテール第四章六二節

 

最も願われる事柄はなかなかやって来ない。よしやって来るにしても、それは決して、それらが大きな喜びを以って迎えられるような時期ないし場合においてではない。
岩波文庫『カラクテール』上巻161ページ

 

 

○感想
相変わらずな皮肉な見方。「前は欲しかったけど、今さら手に入ってもなぁ…」という場面は誰しも覚えがあるはず。
これじゃなんだからあえてポジティブにとらえると、引き寄せ系の考え方に通じる。つまり、望むものはそれを持ってても不思議じゃない、そんなの当然、当たり前、特に嬉しくはない。と思い込んでる時やってくるという風にも読める。

カネで例えると、まず上記の格言の本来の意味としては
・貧乏で苦労し、金持ちになるべく励んで実際金持ちになったが、今さら金があっても虚しい。嬉しくない。
という感じだろうが、成功哲学風に解釈すると
・「カネなんか勝手に集まってくるのが当然」と心底から信じ込めればカネ持ちになる。もちろんカネが集まってきて当然なので今さら嬉しくもない。

「実現して当然と思っていれば、実現する。」という考え方は結構色んな自己啓発、引き寄せ系、悟り系の本で言われてるのでもしかしたら本当にそうなのかも知れないので妙に覚えているが…それができれば世話がないという感じもするので要検討。でも上記の格言を単に「念願が叶うときは大体手遅れ」ととらえるよりは夢があって良い。
結局嬉しくないんじゃどっちもどっちだけど。

 

 

カラクテール―当世風俗誌 (上) (岩波文庫)

カラクテール―当世風俗誌 (上) (岩波文庫)

 

 

 

カール・ヒルティ『仕事の上手な仕方』

『幸福論第一部』

 


■はじめに

仕事の上手な仕方は、あらゆる技術の中で最も大切な技術である。
この技術を一度正しく会得すれば、その他の一切の知的活動が極めて容易になるからである。

しかし人々は上手な働き方より、休息を求める傾向がある。
働きと休息は、両立しない対立物のように見えるが、果たしてそうか。

人間らしい安らかな生活と労働は相容れないという誤った考えをもとに奴隷制が発明され、今でも労働者の不当に安い賃金が文化を支えている。
しかし、全ての人が正当に働くようになれば社会問題は直ちに解決する。
そのためには強制するよりも、人々の心に労働の喜びを思い出させることが必要になる。
労働の喜びは自分で考え自分で経験することからのみ生まれる。他人の教訓や実例からは決して生まれない。

休息は心身を全く働かせずなるべく怠けることによって得られるのではなく、むしろ心身の適度な秩序ある活動によって得られる。人間の本性は働くように出来ているから、本当の休息と幸福は活動の中にのみある。

とはいえ、道楽半分の手芸、スポーツ、芸術修業といった見せかけの労働や、自分の仕事の成果を見ることが少ない工場労働などでは心の満足を得ることは難しい。
逆に、自分の専門分野以外何も目に入らないほど没頭できる芸術家や学者はどんな変わり者であってもこの上なく幸せな労働者である。

有益な仕事は全ての人々の心身の健康のために絶対必要である。

このように労働が心身に良いことは分かりきったことなのに、なぜ人々は働こうとしないのか。
そこで本題だが、そのような人々のための教訓がいくつかある。

 

 

 

■仕事の上手な仕方

仕事にはコツがあり、それを飲み込めば仕事をする気になるのも、仕事をするのも楽になる。

 

⑴動機
愛や社会に対する義務感など高級な動機で働けば、失敗や飽きで嫌になったり、成功で満足して熱意を失うことがない。これは持続性があり、結果にこだわらないということが可能になる。さらには人の精神を非常に強靭にする。

一方で金や功名心など低級な動機で働く者は時に熱意を持って働くこともあるが、長続きしない。こうした利己主義は弱点であり、しかも他の数々の弱点を生み出しもする。

 

⑵習慣化
怠惰を抑え、仕事に向かうのに習慣の強大な力を利用しない手はない。
我々は怠惰や逸楽といった悪徳に慣れるのと同様に、勤勉や節制といった美徳に慣れることができる。もっと言えば、どんな美徳も習慣にならないかぎり、本当に自分のものとは言えない。

習慣にするための方法としては、「とにかくやりはじめる」「モチベーションをあてにしない」「規則正しくやる」というテクニックが有効。

 

⑶優先順位
順番にこだわらず、大事な部分から始めること。
さらに言えば、仕事の最も簡単なところから手をつけるのが最も効果的といっても良い。そのせいで仕事の順序が多少遠回りになっても、とにかく仕事を始めて時間の節約になったという点で補って余りある。
また、「全て完璧」は人間にはまず出来ないことなので、仕事の核心となるごく狭い部分だけは完全に仕上げて、その他の枝葉にあたる広い部分は要点だけを抑えるというやり方が良い。


⑷仕事の内容を換える
最初は気乗りがしなくても仕事を始めなくてはならないが、仕事をし続けた結果として元気と感動がなくなってきたら、その仕事は中止する。
しかし、そこから他の仕事に取り掛かることでも休息と同じ効果があるので仕事自体をやめてしまう必要はない。


⑸力の節約
有益な仕事をするためには無益なことをしないことが大切。
今日では新聞や、くだらない会合などでどれだけ仕事への興味と力が奪われているかは筆舌に尽くしがたい。このような精神的雑用は一切避け、有益な仕事のために精神力を十分に蓄えておかねばならない。

 

⑹反復練習
精神的な仕事を最も容易にする方法は「反復」である。
精神的な仕事は一度目は全体の輪郭がおぼろげに掴めるだけだが、二度目には細部まで見えてきて理解も精確になる。

 

 

 

■終わりに

一度、仕事に没頭するということを知れば、人の精神は働き続けてやまない。
働く人だけが真の楽しみと休息はを味わう。働いていない人の休息は、食欲のない時の食事と同じだ。

最も愉快で、最も報われ、最も安価で、最も良い時間の使い方は、仕事である。

他人に働かせて暮らそうとする怠け者は結局滅びる。
未来は働く人のものであり、社会の主人はいかなる時代にも常に「勤労」である。

 

 

○感想

さすが仕事の人ヒルティだな。
「働かない上流階層」を何かと批判してるがヒルティ自身が「働く上流階層」なので説得力がある。まさに高学歴×長時間労働。幸福論三部作のしょっぱながこれというのも人柄が現れている。

それにしても仕事に没頭する楽しさはわかるが…何と言っても自分には「高級な動機」が欠けている。どんな割りのいい仕事でも低級な動機に由来する「やらされ感」は本当に苦痛だ。どうしようか。

自分が仕事にしたいものに上記のテクをぶっ込んで行くしかない。
“自分の専門分野以外何も目に入らないほど没頭できる芸術家や学者はどんな変わり者であってもこの上なく幸せな労働者である”
これだよこれ。

 

 

 

幸福論 (第1部) (岩波文庫)

幸福論 (第1部) (岩波文庫)

 

 

 

スティーブンスン『怠け者のために』

 

岩波文庫『若い人々のために』収録


ここでいう怠け者はめんどくさがりとか本当に何もしない無気力な人というより、「勉強といえば学校、仕事と言えば会社」というような世間一般の常識とは相容れない自由な精神の持ち主…と捉えた方がわかりやすい。

 


■勤勉な人とそうでない人

世の中には熱心に働く人がいて、一方で何もしていないように見える人もいる。
しかし何もしていないように見えても非常に多くのことをしており、その内容が勤勉な人たちには認められず怠惰と呼ばれていることもある。

金目当ての競争を行なっている人達にとって参加を嫌がる人々がいるのは侮辱であり興醒めだ。自分が努力を重ねてしていることに人々が無関心であるのは耐え難い。
だから知識のある人は知識のない人を、働く人は働かない人を非難する。

勤勉は大したものだが、非難の余地もある。

 

 

ガリ勉はよろしくない

若いときには怠けよ。

少年は優等メダル欲しさにあまりに高価な代償を支払っている。
読書は有益ではあるが、人生の代用物としては生命を欠いている。

今思い出してみても、学校を逃げて経験した有益で充実した時間を後悔することはなく、むしろ面白くもない授業を受けてた時間を残念に思うのではないか。

私は授業で得た学問よりも、街頭で得た学問の断片の方を有難く思う。
もし少年が街頭で何も学ばなければ、それは学ぶ能力が無いということだ。

世間では、ある真実があっても、それが既存の学問の範疇に収まる名称を持ってなければ、無駄話だと認定する。

自分の目で見て自分の耳で聞き、自分で体験する聡明な人間の方が、寝る間も惜しんで学問に励む聡明な人間より、ほんとうの学問をしている。

 

 

■勤勉の弊害

学校、教会、市場と問わず極端な忙しさは生気欠乏の兆しである。一方で怠ける能力は大いなる嗜好欲と強い個性を意味する。

学問と仕事のみに励んでいる人は確かに自分の領分では勤勉で鋭い目を持ち富を積むが、その他の時間では何の楽しみも好奇心もない虚ろな存在になってしまう。
彼らは多くのことを無視することで事務仕事に専念できるが、その分周囲は苦しめられ、その上事務仕事が彼にとって最も重要な仕事だとは言えない。

 

 

■幸せな人であれ

苦痛と困難という代償を払って得た恩恵で無ければありがたいとも思わない人たちがいる。しかしこの考え方は卑しい。読んで楽しい手紙も、もし差出人の血で書いてあったら我々はもっとありがたいなどと思うだろうか?
苦痛や犠牲をともなわない自然な愉快さはありがたい。幸福であることほど軽んじられている人間の義務はない。

幸せそうな人はそれだけで周りに利益を与える。
幸せな男女は難しい数学の定理を証明できなくても問題ない。彼らは「人生は生きがいがある」という偉大な定理を実地に証明している。

一方で勤勉なものたちは忙しさと病気、富と精神疾患を同時に得ている。
こうした周りに毒を撒き散らす者が死んだら人々は喜ぶだろう。

だから、怠けないと幸せになれない人は怠けるが良い。

 

 

■どうせ人間一人の力は大したものではない

我々はこんなにあくせくして何をしようとしているのか。なぜ自分だけが特別だと思うのだろうか。
我々の代わりはいくらでも控えている。例えシェイクスピアがどこかで殺されたとしても世界は止まらない。
青春を捨ててまで追い求めるものは妄想の産物かもしれないのだ。

 

 

 

○感想
「怠け者」というとちょっと意味合いが違うが、世の勤勉至上主義にとらわれず自由な発想ができる人、あくまで自分の欲望に忠実な人というか。
歴史的な天才は学校ではパッとしなかったとかそういう逸話も多いし、ノーベル賞受賞者も全員が一流校出身かと言うとそうでもないのも、こういう非学校的な学びの方が向いてたとかそういう話だろうな。

(『スラムドッグミリオネア』がこの章で言ってるような内容の映画だったかな。あれは街で覚えた生きる術というより正真正銘「街頭で得た知識の断片」で成り上がる話だったからちょっと露骨すぎる。)

そういや漫画とかで、門外漢やアマチュアが非勉強的な経験から得た自由な発想を駆使してマニュアルエリートにひと泡ふかせるというような様式は一定の人気がある。しかしこれはヤンキーが好きそうな「勉強しない方が自由な発想ができる」という安易な反知性主義にも繋がりかねない危うさがある。
個人的には「リベラルアーツ」というようにあれこれ幅広い範囲で色々知ってた方が自由な発想が容易になると思える。「クリエイティブは常に、既存のものの組み合わせである」と言うし。
(ところでリベラルアーツって「自由市民に相応しい学問」なのか「(思い込みから)自由になるための学問」なのか。最初見たときしっくりきたので後者であってほしい。)

この章の内容は自分の楽しみより何より「良い学校と良い成績、良い会社と良い給料」を最高の生き方として追求しがちな日本社会に対する警告になり得る。
特に途中で名指しされる「仕事や勉強はできるが、それ以外は何もできずつまらない人」なんか、趣味がないのが悩みというようなサラリーマンに通じる話じゃないか。
何と言っても日本人は自分らの特色に勤勉を挙げるほどの勤勉至上最高なんで、遠慮なく自分の楽しみを追求していい風潮ができても良いと思える。
そんな現代でも本当にデキる奴は仕事に趣味に大活躍できてるイメージがあるが。
最後に唐突に出てくる「人間には大したことはできない」という厭世観も「だからもっと幸せを追求しようぜ」というメッセージととらえると自然。

この章だけ見ると「じゃあ勤勉なんかやめよう」という気にならないでも無いが、著者本人もはじめに勤勉の徳は認めている。こう考えるとなんだかんだ、勉強と実地体験、どっちもバランスよくやろうという話に落ち着く。
マルコムXもその弁舌やタフネスは怪しげな街で暗躍したハスラー時代に身につけた実戦的なものであったのは確かだが、その後刑務所でめちゃくちゃガリ勉もやってるしこういうどっちもやってる人間が一番強そう。

とにかくこの章の内容は「よく遊び、よく学べ」という短い言葉でまとめられると思う。

 

 

若い人々のために 其他 (岩波文庫)

若い人々のために 其他 (岩波文庫)

 

 

 

穂積陳重『復讐の基礎観念・復讐の沿革』

 

「法の起源に関する私力公権化の作用」二章、三章

 


■復讐の基礎観念

たいていの生物にはその種族的存在を害する攻撃に対し反撃する性質がある。

こと人類に至っては自らの生存を脅かす反対勢力を除去しようとする感覚はほとんど本能的であって、生物のみならず無生物にも反撃し怨恨を晴らすことがある。

復讐は種族的存在を害する他の攻撃に対する反撃であるが、単にその場の危害を撃退するだけではなく、過去の危害についても反撃し、自らの憤怨を慰め、将来の戒めとし、種族の結束を高める口実にもなっている。

復讐は人類の種族保存の基本的美徳に基づくものであるから、(文明国では過去の風習、未開国では現在の風習として、)世界のどの国どの民族でも復讐という現象は一度は通過する。

 

 

■復讐の沿革

復讐の歴史は
・復讐公許時代
・復讐制限時代
・復讐禁止時代
の三つに分けて説明できる。


(一)復讐公許時代
復讐はどの国においても見られるが、日本においては特に長く存在した。
これは武士道、儒教封建制度と法権の未統一の影響である。

武士道において敵討ちは忠臣孝子の義務であり、それを行おうとする者は激励され、果たしたものは罰されるどころか賞賛された。
敵討ちは芝居のテーマとしても人気があり、平民階級にも影響を及ぼした。赤穂浪士の敵討ちがあってからは平民による敵討ちも増えた。復讐を美徳とし、善行とし、賞賛奨励したからである。

赤穂浪士が罰されたのも高官を殺害し治安を害したからであり、復讐したからではない。
儒教においては復讐をもって子弟の義務とし、復讐が忠孝の表現となった。

法の力が弱く生命や財産を保護するのが難しかった時代、あちこちに国が興り統一を欠いた時代にあっては人を殺した者が他国に逃げ込んだ場合、それを制裁する方法がなく、自ら犯人を追跡して復讐する他なかった。逆に復讐を禁止する法規もなかったから、復讐が盛んに行われるようになった。

このように日本ではごく近代まで復讐は、世間ではこれを美徳善行とし、儒教では奨励し、法律は何の制限も無かったので永く行われることになった。
これが一変して制限を加えるようになったのは、種族保存の必要を生じた時代からだった。

 

(二)復讐制限時代
この時代は復讐を禁止はしないが制限を加えることで私闘の弊害を取り除こうとした。ここではじめて自力救済に公権力が加わることになった。

制限①復讐義務者の範囲の制限
制限②復讐責任者の範囲の制限
制限③賠償が復讐の代わりになるようになった
制限④避難所の設置
制限⑤公の許可が必要になった
制限⑥その他の制限


制限①復讐義務者の範囲の制限
原始時代においては種族の一人が殺された場合は一族全員が復讐の義務を負ったが、その範囲は時代とともに次第に縮小して、一家親族が義務者となり、更には最も近い子や兄弟が義務者となるようになった。

制限②復讐責任者の範囲の制限
原始時代においては復讐義務者と同じく、加害者を擁する側も一族全員が復讐に対して戦った。
しかしこれも次第に範囲が縮小し、加害者一人がその責任を負うようになった。

制限③賠償選択
報復は最も自然な自力制裁であって、法の力が弱い時代はほとんど全ての侵害に対して復讐が行われた。
しかし財産に対する侵害は、財産によって償われる風習が生じた。
さらに盗みや傷害に対しても財産による賠償を許すようになり、ついには殺害にも賠償の選択を許すようになった。このような事例は複雑な財産観念を持つ西洋人のみならず、アフリカの部族などにも見受けられる。
しかし武士道においては金銭を得て復讐を思いとどまるのは重大な悪事と考えられた。

④避難所の設置
避難所は復讐の乱発を防ぎ、自力制裁から公権力に移行させる方法の一つだった。
旧約聖書にも、殺人者が逃げ込み、事情を陳述し、長老がその者の非なしを認めれば入場を認めて復讐を免れることができる避難市なる町が設けられたことが記されている。
しかしその殺人者に非があった場合、嘘を言って入場した者の場合は復讐者に引き渡すことになる。こうした風習は日本や中国には見当たらない。

⑤公許の必要
復讐に公権力の許可が必要になったのも復讐禁止の端緒である。
徳川時代は復讐を公認し、美徳善行とした上で届出が必要だった。しかし届出無しに復讐をしても正当な敵討ちであれば咎めはなかった。

⑥その他の制限
復讐は忠孝と武勇の表現であったので復讐を禁止にする法がなかったのは当然だが、治安の悪化と法の執行が妨害される弊害があったために、場所や範囲に制限が加わるようになった。

復讐の風習にも、自力制裁から公権力による制裁に(復讐制限時代から復讐禁止時代へ)移行する際の、両方が入り混じった過渡期があった。国家が被害者の代行を務めることを人民に周知させ、制裁を個人から公権力に徐々に移行させるための方法が出来た。

ⅰ.国家が殺人者を逮捕し、これを被害者の親族に引き渡し思う存分制裁を加えて怨恨を晴らす
ⅱ.裁判所は殺人事実の宣告のみを行い、刑は誰が執行してもしなくても良い。しかし大抵は被害者遺族が行い、殺人者を殺さない場合は非難された。
ⅲ.国家が殺人者を逮捕し、被害者遺族が刑を執行する。
ⅳ.復讐を一つの儀式として行う。(例えば明治維新の時代に、遺族による復讐は許されなかったが、遺族が殺人者の介錯役に名乗りを上げ、それは許可された事例があった。)


(三)復讐禁止時代

※この小見出しは中国と日本の難しい書き下し文による議論がめちゃくちゃ引用されてて意味がわからない上、この時代こそ本書が書かれた時代なので議論の紹介に終わって結論らしい結論は出ていない。しかし要は

復讐は天誅や斬奸を名乗る暗殺の大義名分となってしまった。復讐が復讐を呼び拾集がつかない。ここまできたら急いで法権を統一し、復讐禁止に関する法律を特に定めるしかなかった。

という感じか

 

○感想
この『法の起源に関する私力公権化』は後の『復讐と法律』の前段階の骨格みたいなもの。それでも復讐にまつわる古今東西の事例がめちゃくちゃ引用されててお腹いっぱい。博学すぎる。
『復讐と法律』の方はこの骨格に肉付けされて内容がさらに充実。

敵討ち、達成できれば名誉だが、その難度は相当高く、仇の首を取るまで帰郷できないがその仇がなかなか見つからない、または返り討ちにあったなどでお家がぶっ潰れた事例も多いと南條範夫の小説で読んだ。

「現代の刑罰では生ぬるい」と憤りを覚えるような事件がたまに起きる。でも「被害者遺族に犯人を引き渡して恨みをはらさせろ」というのもまた酷な話。

なんだかんだ、多くの反省の上に今の法律があるわけか。

 

 

復讐と法律 (岩波文庫 青 147-3)

復讐と法律 (岩波文庫 青 147-3)

 

 

 

クリス・アセート『筋量を増やすためのトレーニング』

 

『究極の筋肉を造るためのボディビルハンドブック』2章

 

 

◻︎用語
ワークアウト→筋肉トレーニングのこと。
レップ数→例えば「10回3セット」の「10回」の部分
オールアウト→全ての力を出し尽くして限界まで追い込んだ状態。トレーニーが目指す境地。
オーバートレーニング→トレーニングのやり過ぎで回復が追いつかず、かえって筋肉がしぼんでしまう状態。トレーニーにとって最悪の状態。

 

 


■はじめに
ボディビルダーにとってトレーニングをする最大の目的とは?持久力か、瞬発力か、はたまた腕力か。
ここでは最大の筋発達を可能にする最高のワークアウトシステムを考えてみたいと思う。

 

 

■セット間休憩は長く、ワークアウトは短く

筋肉を発達させるには重りを徐々に重くしていくことが必要。
筋量と筋力を両方つけるのに最も良いレップ数は6〜10回。
6レップ以下で限界がくるような重さだと筋力は増すが筋量は必ずしも増えない。
逆に12レップ以上やれてしまう重さでは筋肉の持久力が上がるだけ。
各レップは加速的な素早い動作で行わなければならない。重りを「上げる」のではなく「爆発させる」こと。

セット間の休憩は短い方が良いと信じられてるが、これは嘘。
休憩が長く、ワークアウトの時間自体は短い方が筋発達には良い。
ワークアウトが長すぎるとカロリーの消費が過大になり、筋肉の回復を妨げ、かえって筋肉が減って脂肪が増える。

一回のワークアウトは1時間以内に抑えること。
重りは加速しながら挙げ、6〜10レップで限界がくる重量で行うこと。
セット間の休憩は心拍数が戻り、筋肉の力が完全に回復したと感じるまでしっかりとること。
背中や足のような大きい筋肉のセット間の休憩は4分程度、腕など小さな筋肉の休憩は1分程度が目安。

 

 

 

■1部位に何セット必要か

初心者と中級者は1部位に3種目がいい。その各種目のセット数は筋量によって変わってくる。

初心者は正しいフォームを体に覚えこませるために、軽い重量で多めのセットが良い。
初心者が高重量少セットでやろうとすると怪我のリスクが高まる。
しかし初心者なら軽めの重量でも筋肥大が期待できる。

中、上級者は筋肉にどれだけのストレスがかけられたかで筋発達が決まる。
これはレップ数やセット数も関わるが重りの重量が最も重要。しかも正しいフォームで扱えることが前提。

1セットで限界まで追い込めるという1セット法は嘘。なぜなら休めばまたセットに取り掛かれるくらいの力は残ってるから。
逆に多すぎるセット数もよろしくない。筋肉に刺激を与えるというよりただ疲労させるだけ。

というわけで各部位に行うセット数は筋肉の大きさによって決まる。
ウォーミングアップも含めて、小さな筋肉(腕、ふくらはぎ)は4〜6セット、大きな筋肉(背中、肩、胸、足)は8〜12セットを行えば十分。

 

 


■ワークアウトスケジュール

筋肉は休んでるときに発達するというのは科学的な事実。
トレーニングしすぎで回復のバランスが崩れると筋発達しない。なので休息が十分に取れるスケジュールを組むのが大切。
オススメのスケジュール4つ。

【3日オン、1日オフ】
1日目:胸、背中
2日目:もも、ふくらはぎ
3日目:肩、腕、腹筋
4日目:休み

中間日に脚をやることで上半身を休ませることができる。4日で1サイクルなので回復が追いつかずキツイと感じる人がいるかも。

 

【4日オン、1日オフ】
1日目:胸、肩
2日目:もも、ふくらはぎ
3日目:肩、腹筋
4日目:腕
5日目:休み
これが一番好きだが2〜3週間続けてやると疲れてくるかも。疲れたら「4日オン、2日オフ」もアリ。さらにその変化版として↓

 

【2日オン、1日オフ】
1日目:胸、上腕二頭筋
2日目:ももとふくらはぎ
3日目:休み
4日目:背中、腹筋
5日目:肩、上腕三頭筋
6日目:休み
これだとたっぷり休みが取れるのでオーバートレーニングの心配もなく、いつも元気でいられる。

 

【2日オン、1日オフ+脚】
1日目:胸、背中、腹筋
2日目:肩、腕
3日目:休み
4日目:脚
5日目:休み
十分な休みを取りながら脚を強化したい人にはコレ。


3番目と4番目の方法がたっぷり休みも取れてオーバートレーニングの心配もなくメリハリのあるトレーニングができる。

自分の体で弱い部分があるなら、オフの日の翌日、エネルギーが最も体に充満しているタイミングでトレーニングすること。

停滞気味な上級者へのアドバイスとしては、たまに(ワークアウト5回のうち1回くらいは)3レップ1セットで限界がくる重量で行うと良い。つまり、普通に2セットやってからさらに重くして1セット。こうして体に高重量の感覚を教えることができれば今までの重量が次回には軽く感じるようになる。

 

 


○感想
個人的には筋トレを習慣にするためにも1日30分のトレーニングで6日オン、1日オフの6分割が向いてる気がする。一週間単位でスケジュール組むのが性に合ってるし。しかしプロのビルダーが本にまで書いて広めようとしてることだ。騙されたと思って生活に取り入れる価値はあるか。しかし1日1時間か…生活全体を見直さないといけない。

 

 

究極の筋肉を造るためのボディビルハンドブック

究極の筋肉を造るためのボディビルハンドブック