モーム『イギリス文学』

 

読書案内一章


■はじめに

試験や知識のために読まなければいけない本があるが、そうした書物は退屈で、むしろ諦めの気分で読む。
しかし読書は楽しくあるのが本当である。
楽しい書物は、生計を立てる役には立たないかも知れないが充実した生活を送ることには役に立つ。

 

■楽しみのための読書

本書は、読まなければ損という本を読んでみたいと思っているある程度暇のある人に向けて書いている。

最大傑作の中にも実はあまり読まれてないものや、今読んでみると全く面白くないものがある。

自分にとって最良の批評家は自分である。自分の興味をひかなかったり面白くなかったならば、その本が世間でどんな良い評判を得ていようが読む必要はない。
だから以下に挙げる本も私(モーム)にとっては重要な本の数々であるが読んでみてどうも面白くないようであれば、遠慮なく読むのをやめてほしい。
読んでも楽しくないなら何の意味もないし、人は楽しみのために読まねらばならないから。


■読書の楽しみ

ところで、楽しみは不道徳なものではない。楽しみ自体は大きな善である。
楽しみは下品で官能的なものとはかぎらず、知的な楽しみほど長持ちして満足できる楽しみは他に無い。

なので、こうした満足を得たい人は読書の習慣を身につけると良い。
読書はいつでも気が向くままにいつでもはじめられて、好きなだけ続けられて、いつでもやめられる。

読書の習慣を身につけることは、人生のほとんど全ての不幸からあなたを守る←!

 

■読書の仕方

本を一冊ずつ読了していく必要はないと私は考える。4、5冊の本を用意してその日その時の気分に合わせて読む。例えば朝に科学書、哲学書のような頭脳に刺激を与えるもの、仕事後に歴史や随筆、夕方に小説を読み、またいつでも読みたい時のために詩集を手元に置き、夜寝る前のためにどこからどう読んでも心がかき乱されない本を枕元に置いてある。私にはこうしたやり方が性に合ってる。

もちろんこれは私のやり方であり、読書の仕方は各自の好きにして良い。

 

■デフォー

『モル・フランダース』は報道文学の傑作だと言える。作中の人物は本当にこういう話し方をして、こういう行動をしたのだと読者は思い込んでしまうくらい本当らしく見える。
下品で残酷な物語だが、英国の国民性の一つである(と考えたい)一種の逞しさがある。
デフォーは想像力もユーモアも乏しかったが、広い人生経験と印象的な事柄を見逃さない鋭い目を持っていた。
彼はクライマックスや人生についての絵模様を描こうとはしなかった。ほとんど同じことを200ページも読まされるともうたくさんだという気になるが、それでも淫らな女主人公が最後に後悔してまともな生活に入るまでついていきたくなる。


■スウィフト

ガリヴァー旅行記』には機知あり皮肉あり、巧みな思いつき、淫らなユーモア、痛烈な風刺、溌剌とした生気を持つ作品である。
また感嘆するような文体で、これまで英語を用いてこれほど簡潔で明快で素朴な文章を書いたものは他にいない。
ジョンソン博士の言葉を借りれば「平易であって卑俗におちいらず、上品であって華美にわたらず、男性的であってしかも傲慢な所のない英語の文体」と言える。

 

■フィールディング

トム・ジョーンズ』は英文学の中で最も健康な作品である。颯爽として、勇敢で陽気で、逞しく太っ腹な作品である。

フィールディングは自分の芸術を意識し、無数の出来事と数多くの人物を創造した。登場人物が慌ただしく騒がしい世界に生き生きと描き出されているのは素晴らしい。

この作品は誰が読んでも楽しく思い、男らしく、健全で、インチキなところが少しもなく、読者の心をすみずみまで温めてくれる作品である。

 

■スターン

『トリストラム・シャンディー』は前述のフィールディングの作品とは全く異質な作品である。読む人次第では「こんな面白い本は未だかつて読んだことがない」とも「退屈でキザな本だ」とも思うだろう。たしかに統一を欠き、首尾一貫していない。
しかしユーモアとペーソスに満ち、驚くほど独創的である。
またその登場人物達は実に愛すべき人物であって、もしこの存在を知らなかったならば償いがたい損失だったと読者は感じるだろう。

 

■ボズウェル

サミュエル・ジョンソン伝』は英語で書かれた最も優れた伝記である。どこを開いても必ず面白い。

ヘブリディーズ諸島旅行記』は『ジョンソン伝』ほどは知られていない。これを読めばジョンソン博士に対する敬愛の気持ち、ボズウェルに対する尊敬の気持ちが増してくる。

面白い事件を一つとして見逃さぬ鋭い目、キビキビした言葉に対する優れた理解力、ある場面の雰囲気や生き生きした話を再現する非凡な才能に恵まれていたボズウェルは決して軽蔑していい文学者ではない。

 

■ジョンソン

ジョンソン博士はボズウェルの『ジョンソン伝』により広く知られているが、博士自身の著作を読んだことがある人となるとほとんどいない。

『詩人伝』は休暇の読み物として、また夜寝る時の読み物として最適である。文章は明晰、鋭い風刺とユーモアに富み、実際的な常識がいたるところに見出される。
時にジョンソン博士は他の文学を批評しその見解に我々は驚くが、ジョンソン博士は鋭く寛大な観察眼によってその文学の著者をよく描き出しているので、我々がその批評されている文学そのものは読んだことがなくとも、この評伝を楽しんで読むことができる。


■ギボン

ギボンの『自叙伝』を私は心から愛好するが、正直言って読まなかったら大変な損失になる本というほどではない。

それでも読んで非常に面白い本である。高雅な文章、壮重な趣とユーモアを両立させている。


ディケンズとバトラー

ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』とバトラーの『万人の道』は英国小説の偉大な伝統に深く根を下ろしているだけでなく、英文学の特徴である逞しさ率直さ、ユーモアと健全なるものを著しくあらわしている。これらの本は巧緻さと繊細さに欠けている。つまり思索的であるより行動的なのである。多分に常識的で、多少感傷的である一方、豊かさな人間性がある。

『デイヴィッド・コパーフィールド』はディケンズの最高傑作であり、彼の長所が最も出ていて、短所が最も目立たない作品である。

『万人の道』は堂々としたスタイルを用いて書かれた最後の英国小説であると同時に、フランスやロシアの文学の影響を受けなかった最後の作品でもある。

 

■オースティン

オースティンは英国最大の小説家ではない。やはりディケンズが最大である。
ディケンズはサスペンスありユーモアあり、人生の多様な面を映し出す一つの世界を創造した。同じことができたのはトルストイのみである。

オースティンは完璧な作家である。確かに彼女の描く世界はごく狭く、限られた階級の限られた登場人物しか出てこない。しかし彼女ほど人間を見る鋭い目を持った者はほかにおらず、細かい気遣いと慎重な分別によって人間の心の奥底に探りを入れた者は他にいない。

そもそもオースティンの作品ではこれと言った事件が起こらない。なのに、なぜかはわからないが、次には何が起こるのだろうとページをめくって先を読まずにはいられなくなる。これこそ小説家にとって必須の才能であって、彼女ほどこの才能に恵まれた者はいない。

彼女の作品は数少ないが、『マンスフィールド・パーク』が一番面白い。賢く、気が利いてて、愛情に富み、皮肉なユーモアと微妙な観察とが見られる傑作である。

 

■ハズリットとラム

チャールズ・ラムは魅力があり、やさしく機知に富み、知れば愛さないではいられない人物であるのに対し、ハズリットは粗暴で気が利かず嫉妬心が強く喧嘩っ早い男である。しかし、ハズリットの方が優れたエッセイストである。

人間として優れていても、優れた本が書けるというものではない。芸術家にとって大切なのは個性である。辛抱強いがやや涙もろく、ものやわらかなラムより、絶えず苦しみ争い続けた荒々しいハズリットの魂の方に、私は興味を覚える。
ハズリットの文章は精力的で大胆で健康であった。言いたいことがあればきっぱり言った。最も優れた文章は『卓上閑話』に含まれているが、中でも「はじめて詩人の知己を得て」は彼の書いた最も感動的な文章であるのみならず、英語で書かれた最も見事なエッセイであると私は考える。

 


サッカレー

人間がいかに平凡であるか深く悟り、人間の持つ矛盾に興味を抱いたサッカレーの物の見方は現代人のそれであるが、生まれた時代のせいでヴィクトリア朝の因習に妨げられていたのは不幸だった。
彼の性格の弱さから世間一般に対して不当なほどの譲歩をしたのは遺憾である。しかし彼がどう評価されようと『虚栄の市』の登場人物の一人、ベキー・シャープという英国小説で最も真実な生き生きとして力強い人物を生み出したのは事実である。

 

エミリー・ブロンテ

嵐が丘』はユニークな作品である。欠点はあるが情熱に満ち、深い感動を読者に与えずにはいられない。偉大な詩と同様に深刻で力強い。普通の小説ならどれだけ夢中で読んでも「これは単なる作り話だ」と自分に言うこともできるが、この作品は読者の生活を根底から覆さないではいられない経験を持つことになる。


■その他

ジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』
トロロップの『ユースタス家のダイヤモンド』
メレディスの『我意の人』
これらも、読まないのは損失と思われる小説であるが、スペースの関係上省略しなければならない。

 

■イギリス詩選

英国は絵画や彫刻、作曲の面で、他国と比肩しうる第一級の人々を生み出していない。
しかし詩にかけては英国は最高の位置にいると私は主張する。

詩は文学の頂点であるから、二流どころでは困る。偉大な詩でなければ、詩は全く無意味である。

しかも、いつでもどこでも詩を読むというわけにはいかない。詩を読むのにふさわしい環境で読みたい。夏の日が暮れかかるころの庭、海が見渡せる崖の上、あるいは森の中の苔むした斜面に腰掛けてポケットに入れてきた詩集を取り出して読むことを私は好む。

偉大な詩人も退屈な詩をたくさん書いている。さらに二流以下の詩人となるともっと大量に詩を書いておきながら真に価値のあるのは二、三篇だけということもある。わずかこれだけの詩のために多くの駄作をも読まなければならないのは苦痛だ。なので選集が良い。

批評家連中は「詩人を理解するには全集を読まねばならぬ」として選集を軽蔑してるようだが、私は批評家として読むのではなく、慰安と気晴らしと魂の平和を求める一人の人間として読む。
選集は感受性豊かな学者が労を惜しまず莫大な量の詩の中から価値の乏しいものを取り除いてくれた、実にありがたい読み物である。

優れた詩の選集としては
パルグレイブ『名詩選』『オックスフォード版イギリス詩選』
ジェラルド・ブレット『イギリス短詩選集』
の三つがある。

もちろん私たちはシェイクスピアの偉大な悲劇を読まねばならない。彼は不世出の偉大な詩人である。彼の劇と詩についての精髄を集めた一冊の選集があれば良いと思う。

 

 


○感想

 

何かの雑誌に寄稿した文章中に「若者から『何を読めば良いか』と聞かれることがある」という何気ない文を書いたらその雑誌の読者から反響があり「何と答えたんです

辛口なモームが他人の作品を褒めまくるだけでなんだか楽しくなってそれらを読みたくなってくる。この読書案内はイギリス文学のほか、ヨーロッパ文学、アメリカ文学も網羅してて、さらに『世界の十大小説』というのも著している。そちらの方は小説10冊に絞ってよりディープな解説を加えている。必読。

とはいえ実際にこれら古典に取り掛かると訳文のせいか人物の覚えにくい名前のせいか結構しんどかったりする。その場合はモームが薦める「面白くなかったら読むのをやめて良い」をありがたく実行するのみ。『嵐が丘』『デイヴィッド・コパーフィールド』『トム・ジョーンズ』あたりは買ってはあるがページをめくったかも覚えてない…。

しかし少なくともオースティンは本当に面白い。確かになんでこんなに先を読みたくなるのか意味がわからないくらい面白い。中でもやはり王道を征く『プライドと偏見』。映画版はキャストも良かった。『プライドと偏見とゾンビ』は…どっかで立ち読みして呆れてそれっきり。

 

 

 

読書案内―世界文学 (岩波文庫)

読書案内―世界文学 (岩波文庫)

 

 

 

ラ・ブリュイエール『野心と自由』

 


カラクテール四章「心情について」五九節

 


立身出世に向かっては、つまらない気まぐれな事柄に向かって飛ぶ時と同じ翼ではとても飛べない。自分の気まぐれに従う時は何か自由な感じがするが、地位を追って走るときにはそれどころか隷従の感じがする。大いに出世を思いながら殆どそのためにつとめることなく、ことさらにそれを求めないでも自然とそれは見出せるはずだと自ら信じているのこそ自然である。

岩波文庫『カラクテール』上巻160ページ

 

 

 


○感想

関根秀雄氏による訳注によるとこれは密かに野心を抱きながらもモラリストとしての自由さを離れず、自分のような人間は求めずともそれなりの地位に巡り合うはずだというラ・ブリュイエール自身の矜持に他ならないらしい。いいね。

 


情け容赦なく人間を切り刻む他の格言群と比べると自分に言い聞かせてる感じが滲み出てるのが人間味を感じさせる。

 


個人的にはやりたくもないことをやるのが苦痛すぎるのでこの価値観に賛同しつつ棚ぼたを待ちたい。

実際、理にかなった生き方っしょ。多分。楽だし。

 

 

カラクテール―当世風俗誌 (上) (岩波文庫)

カラクテール―当世風俗誌 (上) (岩波文庫)

 

 



 

唯円『仏の救いに甘えている者について』

 

歎異抄十三条

 

まず、阿弥陀仏の本願とは、「生きるもの全てを救う」という誓願のこと。
浄土真宗ではこの誓願が成就していることから「我々はすでに救われている」と説く。

 


■本願ぼこり、救いに甘える者について

いかに弥陀の本願が不思議なものだからといって自分が犯す罪を恐れないのは救いに甘えてつけあがること(本願ぼこり)であってこういう人間は浄土に行けない、と言う者がいる。

これは弥陀の本願を疑う考え方であり、この世の善も悪もすべて過去の世の行いによるものと心得ていないことだ。

 

 

■縁なくば人を殺すことはなく、縁があれば人を殺すこともある

どんなことでも自分の心で決められるなら浄土に行くためには千人でも殺せるはずだ。しかし、そんな縁が無いから一人も殺せないだけのことだ。縁があれば、殺すつもりがなくとも百人や千人を殺すこともある。善事も悪事も心の良し悪しで決まるのではなく、縁で決まってしまう。

心の良し悪しが浄土への往生に関わると勝手に考えるのは本願の不思議な力によって救っていただくということを知らないと言うことだ。

 

 

■わざわざ悪事を働く者

「悪を犯した者を救う本願であるから、悪を犯さなくてはいけない」という誤った考えを起こした者がいた。薬があるからといってわざわざ毒を飲むものではない。
とはいえ、悪を犯すことが往生の妨げになるということでは無い。

 

 

阿弥陀仏の本願は正しい者だけのものではない

もし本願を信じることが出来るのが、正しく生きる者だけだとしたら、私たちは迷いの世界を離れることはできない。
私たちのようなつまらないものであっても本願に出会わせていただいてこそ本当にその本願をありがたく思うことが出来る。

漁師や猟師のように殺生を生業をする者も、商人や農民もみな同じだ。誰でも然るべき縁がはたらけばどんなことでもする。
しかし近頃はまるで善人や正しい人だけが道場に入ったり念仏することができるかのように言う人が出てきた。こういう人たちは見かけは良い行いに励んでるように見せかけるが、内には嘘偽りの心を抱いているものだ。

 

 

■仏の救いに甘えても良い

救いに甘えて作ってしまう罪にも、前世の縁がはたらいている。
良い行いも悪い行いも過去の世からの縁に任せてただ本願のはたらきに身をゆだねてこそ他力であり、救いがある。
阿弥陀仏にどれだけの力があるか知っていれば、自分がどれだけ罪深くても『自分は救われない』などとは思わない。」と唯信抄にもある。
本願に甘える心があるからこそ、他力に身をゆだねる信心も定まっていると言える。

自分の罪悪や煩悩を滅し尽くせば本願に甘える気持ちもなくなるだろうが、それはすでに仏になっているのであり、本願も無用のものになってしまう。

「救いに甘えるのは良くない」と戒めている人々にも煩悩が捨てきれず、清らかでない人が多く見受けられる。これこそ救いに甘えてる状態ではないのか。こうした人々の戒めは考えが幼いと言わざるを得ない。

 

 

 

○感想

「みんな救われている」という教えを逆手にとって「じゃあ悪いことをしても救われるじゃん」と嘯いて悪事を働くような輩が出てくるのも当然、それを戒めるのも当然に見える。
しかし唯円はそういう戒めをする人がむしろ仏の救いの力を信じてないのではないかと言う。
悪に対しては、善の勝利を信じて耐えるしかないということか。

キリスト教でも「信じれば救われるんだから今は悪いことしてもいいだろ」と考える輩もいて、この点なんかで見かけた浄土真宗の僧と神父(牧師?)の対談では最終的に「本質的には全く違うが、直面する問題は同じ」という風な結論だった気がする。うろ覚え。

ところで『縁なくば人を殺すことはなく…』のところで出てくる善事も悪事も本人の意思ではなく前世の行いによるものだという宿業説は信仰生活的には「自分のことすら自分で思うように出来ない。だから他力に全てお任せしよう」という結論で、実際生活的には「だから人には同情しよう、受け入れよう」という意味合いも含まれていたはずだが、今や無関心と組み合わさり社会や環境、病気、性別のせいで苦しむ人に対して「お前が前世で悪い行いをしたんだろ。お前が悪い」と個人の責任に帰する口実にもなっている。本来はもっと奥が深い考えなのに。

 

浄土真宗にしろキリスト教にしろ心の底から「お任せしきる」境地に達するのは本当に難しいだろうな。救われたと確信するには本物の信仰が必要だ。

 

 

歎異抄 (文庫判)

歎異抄 (文庫判)

 

 

 

ベッカリーア『死刑について』(犯罪と刑罰16章)

 


■はじめに。死刑は役に立つか、正しいか

苛酷な刑罰をいくら用意したところで人々は良くならないのを私は見た。そこで以下の二点を検討したい。
・死刑は有用なのか
・賢明な政体にとって正しいのか

 

■人を殺すことができる権利とは

法律や主権は各個人の権利の総体であるが、死刑はいかなる権利にも基づかない。人を殺す権利は誰にもないからだ。

 

■死刑とは一人の国民に対して国家が布告する宣戦である。

以下の場合だけは国家による死刑もやむなしと言えなくもない。
・国家が無政府状態で回復か滅亡かの瀬戸際にある時、ある一人の国民が(革命によって)政体の存続を危うくさせる可能性がある場合。
・死刑が他の人々の犯罪を抑制させる唯一の方法である場合。

 

■死刑の効果

まず、死刑は犯罪を抑制させない。
人の精神に大きな効果を上げるのは刑罰の強度ではなく継続性である。
瞬発的で強力な刑罰より、弱くてもいつまでも続く刑罰の方が人の精神に与える影響は大きい。
一人の悪人の死はすぐ忘れられるが、自由を剥奪され家畜と成り下がった人間の姿は周囲に「私も罪を犯せばあんな惨めな境遇になるのか。ああはなりたくない」という強烈な印象を与える。
遠くにある死の印象はあまりに漠然としている。死の恐怖より人の忘却の方が強い。

死刑は大多数の者にとっては見世物でしかない。残りの少数にとっても憤りが混じった同情の対象である。なので死刑が見せしめとして機能する事はまず無い。死刑を見物した悪人はそのまま自分の悪事へとかえっていく。
また、刑に処される囚人への怒りよりも同情の方が大きくならないように、刑の苛酷さには限度がなければならない。

 

終身刑について

刑が正当であるには犯罪の抑止になる程度の十分な厳格さがあれば良い。
犯罪で得られるわずかばかりの利益と永久に自由を剥奪されることを比べられない人間はいない。

こういうわけで死刑と置き換えられた終身刑は堅く犯罪を決意した人々を翻意させるに十分な厳しさを持つ。それどころか死刑より確実な効果がある。

人は往々にして、熱狂、虚栄心、または絶望のために平気で死に向かう。
しかしこれらの熱狂や虚栄心も牢獄の中の不自由に対しては罪人の助けにはならない。
人は極度の苦痛であっても一時的なものと分かっていれば耐えられる。しかしいつまでも続く苦しみには全く耐えることができない。

死刑は一度の見せしめのために犯罪人一人を殺す必要がある。しかし終身刑はたった一人の犯罪人に何度も見せしめの役を務めさせることができる。

死刑の抑止力を示したい時、死刑相当の凶悪犯罪がたびたび必要になる。つまり死刑はその抑止力を示すためには抑止力において完璧であってはならないことになり、矛盾である。

 

終身刑は残酷か

終身刑の苦痛は長期に分散されている。しかしそれを見るものは、刑期全てを一つとして凝縮して想像するので、より大きな苦痛に見える。
つまり、終身刑はそれを受けて苦痛に慣れてしまっている本人より、見る者の想像力を刺激して、より多く恐れさせる点が優れている。

 

■社会と死刑

人殺しを忌み嫌う法律が人殺しを命令するという矛盾はバカバカしい。

歴史上あらゆる国で死刑が支持されてきたということは死刑を正当化する根拠にはならない。なぜなら歴史は過ちで出来ているからだ。

 

○感想
今現在の死刑論がこういう論点で議論されてるかは知らない。
ただし、先進的で知的に見られたいだけで死刑反対を唱える輩や、死刑執行にサインした法務大臣を「人殺し」と呼ぶような輩は嫌いだ。
恐らく死刑を廃止してもこの手の人たちが「終身刑をもっと快適にして囚人の人権に配慮しろ」とか「終身刑は残酷だから廃止しろ」と言い出すのは間違いない。

「死刑になりたくて犯行を行った」とかいうやつもいるし、重犯罪者でも死刑が嫌な人間と終身刑が嫌な人間がいるだろうし、どうにか心理分析して嫌がる方をチョイスできれば良いかも。

個人的には死刑も終身刑もどっちも嫌すぎるのでどうにかこうにか清く正しく生きることにする。

 

 

 

犯罪と刑罰 (岩波文庫)

犯罪と刑罰 (岩波文庫)

 

 

 

エピクロス『水とパンで快に満ちる』(断片二の37)

 


水とパンで暮らしておれば、わたしは身体上の快に満ち満ちていられる。そしてわたしはぜいたくによる快を、快それ自身のゆえにではないが、それに随伴していやなことが起るがゆえに、唾棄する。
岩波文庫エピクロス・教説と手紙』114ページ

 


○感想
苦難に対してはストア派が「男らしくひたすら耐える」思想だとするとこちらは「足るを知る」であるのが違いか。正直なところストア派の不動心(アパティア)とエピクロス派の平静心(アタラクシア)の違いがよくわからない。確か平静心の方が大きい概念で、不動心は平静心に至る手段の一つという位置付けだったかな。だとすれば別に対立する概念ではないし、実際、行動だけを見れば傍目からは区別がつきにくいもののようだ。

ストア派が快楽は悪!としたのに対しエピクロス派は別に快楽を否定はしてないので禁欲主義vs快楽主義とわかりやすい対立構造にさせられてるがエピクロス派は別に積極的に快楽を追求してるわけではなく「自然体」の徳を説いてるだけでこの点は誤解されてる。後世で呼ばれてるところのあちこち遊びまわるような「快楽主義者」は全然エピクロス的ではない。むしろこの説で説かれているように「ぜいたくには不快がつきまとう」ということで放蕩三昧は否定されてる。
自然体で、静かな心でいることが最高の快楽だ、ということ。

ゼノンから始まるストア主義は様々な偉人を生み出したがエピクロス派を名乗る偉人は聞かないな。
しかしストア主義は偉人も多いがそれ以上に「傲慢で鼻持ちならない哲学者」が多く、特にキリスト教的世界観の物語ではむしろ頑迷な異教徒かつキリスト教徒を敵視する悪役として登場している割合が多い気がする。
思いのままにならない世の中で一人立つための「やせ我慢」「ザ・ストイック」ストア派に対して、エピクロス派はそもそも遁世的なのであまり表舞台に出てこないのも当然か。

ところで個人的には(ネガティブ思考が染み付いてるせいか)「ぜいたくに随伴する不快」について心当たりが色々ある。
・どんなに楽しい飲み会でもその後の気分の悪さや割高な出費を苦々しく思うことがある。
・どんなに美味しいご馳走も少し飽きがくるだけで嫌気がさす。
・高級品を持てばそれが傷ついたとか無くなったとかでかえって非常な不快を感じる。
こうした例は枚挙にいとまがない。

本当に快いものには「随伴する不快」は少ないか、ほぼ無いもの。天気のいい日に散歩するとか。確か禅の思想だったかで「美味しいものを食べられるから嬉しいのではなく、味を感じるから嬉しい」というような言葉があったが、全く心から同意する。エピクロスの思想もこのあたりと通じるものがある。

こういう価値観でいると自然と質素になり、質素で無駄がないという見かけはストア主義に似てるが、だからといって「俺はお前らとは違う」と自惚れたり他人を見下したりするような余地がないのがエピクロス派の優れた点。

とはいえ遁世的な生き方が出来ず、これからも世の中と向き合い続けなければならないなら、ストア主義の方が力になるとは思える。

 

 

 

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

 

 

 

ヴォーヴナルグ『小さな人物は小さな職務につけること』(反省と格言六九五)

 

 

ヴォーヴナルグラ・ロシュフーコーラ・ブリュイエールにならぶフランスモラリストの一人。パスカルにも影響を受け、「本人が作品を完成させたのではなく、作品が本人を完成させた」という点でモンテーニュに共通する部分もあるとか。というかモンテーニュ自身がモラリストの走りだから似てるのは当たり前ではある。

性悪説的な辛辣な目で人間を見るモラリストの中でも性善説に基づいてるらしく、切れ味は物足りないが、よく言えばマイルドで希望を感じさせる。実際本人はかなりのお人好しで極貧の中でも困ってる人に施しをすることがやめられなかったとのこと。で、32歳で若死に。まさしく不遇なる一天才。

ところでヴォーヴナルグのようにプルターク→ストア主義と通過するのはモラリストの定番コースらしい。俺自身全く同じ嗜好を持ってるのでこの系譜にあやかりたい。

 

以下、『反省と格言』の一節。

 


小さな人物は小さな職務につけなければならない。彼らはそこに天賦を傾け自負を持って勉励する。自分の低い職務を軽蔑するどころか、彼らはそれを光栄とする。馬の寝わらを分配させたり、ネクタイがゆがんでいると言って兵隊を営倉にぶちこんだり、教練の時に鞭をふりまわしたり、することの好きな連中がいるものだ。彼らは横柄で自惚れが強く高慢ちきでいて、己の部署に満足しきっている。もっと真価のある男なら、彼等が大よろこびですることに屈辱を感ずるだろう。そして恐らくその義務を怠るであろう。
岩波文庫『不遇なる一天才の手記』273ページ


○感想

職業差別に繋がりそうな話であるがこれはヴォーヴナルグ自身が兵隊時代を回想しながら書いてるようで、下位の者には偉そうな軍曹やら隊長を念頭に置いてるようだ。

現代で言えば、校則をたてに権力者ぶる教師とか、ちょっとしたマナー違反で鬼の首を取ったように騒ぐ頭のおかしい人なんかが当てはまるか。その時はただ不快な存在でも後々哀れみの感情とともに回想されて、結果的に反面教師になるところまで考えれば、不快な連中が不快なことをするのは適材適所で社会の利益になると言えなくも無い。愉快な人に不快な役割を担わせるのは社会の損だ。
ヴォーヴナルグも「そういう人間をそういう仕事に就けるべし」と言ってるからにはこういうメリットがあってのことだろう。

・つまらない人間はつまらないことで威張りちらす
・お山の大将はお山に居座らせておけ、出てこられると迷惑だ

ところで、よく言われるような『偉大な人物はつまらぬことも疎かにしない』という考え方と矛盾しないかというと、感情がポイントになる。つまらない人間はつまらないことを大よろこびでする、と。
偉大な人物ならつまらない仕事に対して内心思うところがありながらもとりあえずは黙って職務を遂行しながらステップアップの機会を待つという感じか。

今の仕事をつまらない、屈辱だと感じているならある意味朗報かも知れない。

 

 

不遇なる一天才の手記 (岩波文庫)

不遇なる一天才の手記 (岩波文庫)

 

 

 

ジンメル『美醜、いずれに慣れると卑しさが現れるか』(日々の断想129節)

 

醜いものに慣れている場合と、美しいものに慣れている場合と、人間の卑しさが多く現れるのは、どちらのほうか。私にはわからない。
岩波文庫『愛の断想・日々の断想』118ページ

 


○感想

こういう問題提起ができる人間は知的な感じがする。さすが社会学者。
それはそうと人の高貴さと卑しさは個人的には興味深いテーマだ。
この短い文章では「醜いもの、美しいもの」が具体的に何を指しているかは明確ではないが、汚物と芸術、ブサイクと美形など思いつく限り考えてみても確かにハッキリしない。

まず仮に「慣れている」とは「自分の職業で常にそういうものを取り扱っている状況」としてみる。
例えば…
認知症老人の垂れ流す糞尿は「醜いもの」。それらを扱う介護士
・芸術品や装飾品は「美しいもの」。それらを扱う商人

どちらの職業につくと人間の卑しい部分が出てくるか。

さらに
・醜い人相手の商売
・美しい人相手の商売
でどちらがより自分の卑しい部分が育つか。
なんにせよ相手によって態度を変えたら卑しいのは間違いないが。

こんな感じでいろいろ考えてみると…どうも答えは出ない。考え方が間違ってるか。
醜いものに慣れたから心が汚れてるとも言えず、綺麗なものに慣れたから心が綺麗だとも言えない。

最初から、物事の美醜と人の心の卑しさ貴さは関係ない。というのが結論になりそうだ。

 

 

 

愛の断想 日々の断想 (岩波文庫)

愛の断想 日々の断想 (岩波文庫)