ベッカリーア『死刑について』(犯罪と刑罰16章)

 


■はじめに。死刑は役に立つか、正しいか

苛酷な刑罰をいくら用意したところで人々は良くならないのを私は見た。そこで以下の二点を検討したい。
・死刑は有用なのか
・賢明な政体にとって正しいのか

 

■人を殺すことができる権利とは

法律や主権は各個人の権利の総体であるが、死刑はいかなる権利にも基づかない。人を殺す権利は誰にもないからだ。

 

■死刑とは一人の国民に対して国家が布告する宣戦である。

以下の場合だけは国家による死刑もやむなしと言えなくもない。
・国家が無政府状態で回復か滅亡かの瀬戸際にある時、ある一人の国民が(革命によって)政体の存続を危うくさせる可能性がある場合。
・死刑が他の人々の犯罪を抑制させる唯一の方法である場合。

 

■死刑の効果

まず、死刑は犯罪を抑制させない。
人の精神に大きな効果を上げるのは刑罰の強度ではなく継続性である。
瞬発的で強力な刑罰より、弱くてもいつまでも続く刑罰の方が人の精神に与える影響は大きい。
一人の悪人の死はすぐ忘れられるが、自由を剥奪され家畜と成り下がった人間の姿は周囲に「私も罪を犯せばあんな惨めな境遇になるのか。ああはなりたくない」という強烈な印象を与える。
遠くにある死の印象はあまりに漠然としている。死の恐怖より人の忘却の方が強い。

死刑は大多数の者にとっては見世物でしかない。残りの少数にとっても憤りが混じった同情の対象である。なので死刑が見せしめとして機能する事はまず無い。死刑を見物した悪人はそのまま自分の悪事へとかえっていく。
また、刑に処される囚人への怒りよりも同情の方が大きくならないように、刑の苛酷さには限度がなければならない。

 

終身刑について

刑が正当であるには犯罪の抑止になる程度の十分な厳格さがあれば良い。
犯罪で得られるわずかばかりの利益と永久に自由を剥奪されることを比べられない人間はいない。

こういうわけで死刑と置き換えられた終身刑は堅く犯罪を決意した人々を翻意させるに十分な厳しさを持つ。それどころか死刑より確実な効果がある。

人は往々にして、熱狂、虚栄心、または絶望のために平気で死に向かう。
しかしこれらの熱狂や虚栄心も牢獄の中の不自由に対しては罪人の助けにはならない。
人は極度の苦痛であっても一時的なものと分かっていれば耐えられる。しかしいつまでも続く苦しみには全く耐えることができない。

死刑は一度の見せしめのために犯罪人一人を殺す必要がある。しかし終身刑はたった一人の犯罪人に何度も見せしめの役を務めさせることができる。

死刑の抑止力を示したい時、死刑相当の凶悪犯罪がたびたび必要になる。つまり死刑はその抑止力を示すためには抑止力において完璧であってはならないことになり、矛盾である。

 

終身刑は残酷か

終身刑の苦痛は長期に分散されている。しかしそれを見るものは、刑期全てを一つとして凝縮して想像するので、より大きな苦痛に見える。
つまり、終身刑はそれを受けて苦痛に慣れてしまっている本人より、見る者の想像力を刺激して、より多く恐れさせる点が優れている。

 

■社会と死刑

人殺しを忌み嫌う法律が人殺しを命令するという矛盾はバカバカしい。

歴史上あらゆる国で死刑が支持されてきたということは死刑を正当化する根拠にはならない。なぜなら歴史は過ちで出来ているからだ。

 

○感想
今現在の死刑論がこういう論点で議論されてるかは知らない。
ただし、先進的で知的に見られたいだけで死刑反対を唱える輩や、死刑執行にサインした法務大臣を「人殺し」と呼ぶような輩は嫌いだ。
恐らく死刑を廃止してもこの手の人たちが「終身刑をもっと快適にして囚人の人権に配慮しろ」とか「終身刑は残酷だから廃止しろ」と言い出すのは間違いない。

「死刑になりたくて犯行を行った」とかいうやつもいるし、重犯罪者でも死刑が嫌な人間と終身刑が嫌な人間がいるだろうし、どうにか心理分析して嫌がる方をチョイスできれば良いかも。

個人的には死刑も終身刑もどっちも嫌すぎるのでどうにかこうにか清く正しく生きることにする。

 

 

 

犯罪と刑罰 (岩波文庫)

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