ジンメル『美醜、いずれに慣れると卑しさが現れるか』(日々の断想129節)
醜いものに慣れている場合と、美しいものに慣れている場合と、人間の卑しさが多く現れるのは、どちらのほうか。私にはわからない。
岩波文庫『愛の断想・日々の断想』118ページ
○感想
こういう問題提起ができる人間は知的な感じがする。さすが社会学者。
それはそうと人の高貴さと卑しさは個人的には興味深いテーマだ。
この短い文章では「醜いもの、美しいもの」が具体的に何を指しているかは明確ではないが、汚物と芸術、ブサイクと美形など思いつく限り考えてみても確かにハッキリしない。
まず仮に「慣れている」とは「自分の職業で常にそういうものを取り扱っている状況」としてみる。
例えば…
・認知症老人の垂れ流す糞尿は「醜いもの」。それらを扱う介護士
・芸術品や装飾品は「美しいもの」。それらを扱う商人
どちらの職業につくと人間の卑しい部分が出てくるか。
さらに
・醜い人相手の商売
・美しい人相手の商売
でどちらがより自分の卑しい部分が育つか。
なんにせよ相手によって態度を変えたら卑しいのは間違いないが。
こんな感じでいろいろ考えてみると…どうも答えは出ない。考え方が間違ってるか。
醜いものに慣れたから心が汚れてるとも言えず、綺麗なものに慣れたから心が綺麗だとも言えない。
最初から、物事の美醜と人の心の卑しさ貴さは関係ない。というのが結論になりそうだ。