ショーペンハウエル『読書について』

 

辛辣な読書論。

 

 

■1

無知は富と結びついてはじめて人間の品位を落とす。
富める者がその富と時間を有効に使わない場合は非難されるべきである。

 

■2

読書とは他人にものを考えてもらうことであり、自分の頭を使うことがない。したがって多読するほど、自分で考える力を失い愚者になっていく。
読んだものを反芻し熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは真に読者のものになる。

ニュートンの言う「巨人の肩の上に立つ」というのはこの「他人にものを考えてもらう」を前向きに捉えた言い方だな。あとは「少し読み、多く考えよ」も読書の正しい仕方としてよく言われる

 

■3a

本を読んだところで著者の才能を自分のものにすることはできない。しかし自分の中にそういった才能が眠っている場合、それを呼び覚ますことができる。

 

■3b

活字が細かすぎると目に悪いので法で制限すべき。

 

■4

かつてセンセーションを巻き起こした本も図書館のなかで太古の地層のように堆積し、化石になっている。

 

■5

クセルクセスは自分の大軍を眺めながら「この中で百年後も生きているものは一人もいない」と涙を流したそうだが、我々が今の図書目録を見てもこの中で十年後も残ってる本はないという思いに打たれるだろう。

 

■6

今はあまりにもクズ本、悪書が溢れている。一般の読者もこうした悪書を追いかけるように馴らされてしまった。

読書についての心がけとしてはこうした悪書を読まずにすます技術が非常に重要である。
話題性だけはあっても一年もすれば消え失せるようなものは読まず、卓越した精神の持ち主である天才の作品だけを熟読するべきである。
悪書を読まなすぎるということもなければ、良書を読みすぎるということもない。
人の時間と力には限りがある。良書を読むための条件は、悪書を読まないことである。

 

■7

人々は天才について書かれたものは読むが、天才の書いたものは読まない。新刊でありさえすればとびつき、真に読むべき古典は死蔵する。
つまらぬ本は時間が経てば嘲笑され打ち捨てられる。我々は出版されたその時点で同じ態度をとるべきだ。

 

■8a

文学は常に2つある。真の文学と偽の文学である。
真の文学は学問や詩のために生きる人たちによって営まれ、静かにゆっくり歩み、永遠に持続する。
偽の文学は学問や詩によって生きる人たちに営まれ、騒がしく疾走し、あっという間に消え去る。

 

■8b

我々は本を買うことと、本の内容を獲得することを混同している。

重要な書物は続けて二度読むべきだ。二度目になると理解が深まるし、1回目とは違った新鮮な見方が出来るようにもなる

精神的教養が高まれば著書だけに楽しみを持ち、著者には興味を持たないという高度な水準にも達し得る。

精神のためにはギリシア・ローマの古典が最も良い。

 

■9
(※ショーペンハウエルはこの節で様々な哲学者や芸術家を卑俗だの妄想家だのと滅多斬りにしているが読書とはあんま関係ないただの批判っぽい)
文学史の大部分は、かつては栄えたが今では評価されない歪な活動のカタログである。
優れた作品を読むなら文学史にあたる必要はない。なぜなら本当に優れた作品は生きていて教養ある人々の話題の中にいるからである。
ただし、人々がいかに本当の天才たちを貧困の中に殉死させ、芸術を騙る下らない連中に富と名誉を与えて来たか、このような悲劇としての文学史ならばあっても良い。

 

 


○感想
肝心なのは2節と6節。
2節の「本を読むと頭が悪くなる」は刺激的な逆説として他の本でもよく引用されてる印象。現代人は本を読まなすぎるということでとにかく多読を奨励されてるが、読書の習慣がついてからはこの忠言を頭の片隅において間違いはなさそう。
6節の「何を読まないかが重要」というのも心に残る逆説。何をしたらいいかわからないときは、逆に何をしたらいけないかを考えてみるのも有効というわけ。
この考え方を拡大して、悪いものに関わってると良いものに触れる時間も力もなくなる(=良いものに触れてれば悪いものに関わる時間も力もなくなる)というゼロサムの法則はより良い生活をする上でかなり核心に迫ってるな。

 

 

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

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