アレクシス・カレル『創造する精神』(人間、この未知なるもの四章)

血管の縫合とかなんかでノーベル医学賞受賞。
ノーベル賞受賞者の割りに「残念ながら、我々優秀な白人と比べて他の人種は劣っていると言わざるを得ない」とか「運動選手は知能が低い」とか各種差別のオンパレードなのでそこは割り引いて読まないとダメ。
しかし心霊研究や超能力などオカルトじみた事を「あり得る。私は見た。自分で研究してる」などと肯定してる件についてはSukoshi Fushigi主義者としては心強い。かの「ルルドの泉」についての本も出してるっぽい。まぁ…マッドサイエンティストか。

『人間、この未知なるもの』は人間存在というものをあらゆる点で分析して「人間、やっぱ奥が深えわ」と感嘆するような内容になってる。
この章の内容としては人間の精神に関わるものを哲学、社会学、医学、心理学、文学など様々な切り口で分析している。博識。


⑴「精神」-その力の解明の歴史
肉体と精神はデカルト以降二元論で語られてきたが、切り離せるものではない。
しかし精神とは何か、未だ解明されていない。

医学書も神秘思想の文学作品も同じものの二つの面について述べている。
ルネッサンス以降、物質と精神は切り離されて、物質の方が真実と考えられるようになった。しかし本来の価値は同等である。

⑵「知的能力」を伸ばすもの、妨げるもの
第一に、人間には知能がある。
知能は推理の習慣、論理、数学、規律、観察などによって発達する。
逆に、慌ただしく多すぎる情報、規律がないことは知能の発達を妨げる。

科学は知能によってのみできたのではなく、天才の持つ直感力(インスピレーション)も寄与している。論理と直感は科学発展の両輪である。

(直感に関連して)透視、テレパシー、読心術なども科学の観察対象である(もちろん、非科学的として無視されるのも無理はないが)。こうした例もあるように、人間は知性によって物質世界の主導権を握っているが、知性のほんの一面を知っているに過ぎない。

⑶道徳の本質について
人間は知性、情緒、生理的機能によって絶えず影響を受けている。
こうした個人または民族によって異なる気質はまさに人間そのものである。

道徳的活動は責任や義務という観念を起こさせる。
他人の痛みを感じ取れるということは(それで喜ぶにしろ心を痛めるにしろ)人間だけの特性である。
人はそれぞれある程度生まれつきで善人とか悪人とかであるが、知能と同じく道徳も教育、訓練、意志の力で発達させられる。

道徳観念と知性は関係し合っているが、道徳観念の方がより重要である。
道徳的な美しさこそが何よりも文明の基礎になるものだ。

⑷人間の「美的活動」について
美的観念は最も文明的な人間と同様、最も原始的な人間にも存在する。狂人でも美術作品を作ることからもわかるように、知性は消えても美的観念は残る。
人間は自然を見つめて喜び、それを写し取ることでも喜びを感じた。しかし今の産業文明では工場労働に代表されるように、そうした喜びは奪われてしまった。現代は物質のために精神を犠牲にするという重大な過ちを犯してしまってる。

美の創造は尽きない喜びのもとになる。
しかし美的観念は自然のままでは発達しない。放っておけば衰え、やがて消え失せてしまう。

⑸宗教活動について
宗教の神秘的傾向は道徳観念よりずっと少ないにもかかわらず、人間の本質的活動の一つである。
宗教は哲学よりも遥かに深いインスピレーションを人間に与える。

宗教的活動とは現世の物質を超越した力への憧れと美への希求などから成り立っている。
宗教はある面では道徳的活動だが、ある面では美的活動以上に美を追求している。こうした美は芸術家の追求する美より一層豊かで、言葉にしにくい。

神秘生活に至るための禁欲は人間にとって最大の冒険である。英雄と呼ばれるかもしれないし狂人と呼ばれるかもしれない。しかしこのような経験は人間の最高の欲求をかなえてくれる。

⑹精神活動の調和について
これらの活動(知性、道徳、美、神秘)ははっきりと区別されていない。区別は便宜上のものであって実際は統一しているものである。

知性は、それ以外を持たないものにとっては無用のものである。
情緒的活動、美的活動、神秘的活動だけ発達させても怠惰な夢想家や狭い心の持ち主を生む。
道徳観念の方が知性よりはるかに必要だ。

刑務所に入ってない悪人は大抵、高度の知的、情緒的、美的観念を持っているが道徳観念だけは発達していない。
知的活動、道徳的活動、肉体的活動がよく統合されている人が最も幸福で、最も役に立つ。
また、偉大な天才が立派な人間であることは滅多にない。ある一面だけが異常発達している。共同体の異質な腫瘍とも例えられるが、しかし天才はその不協和で社会に利益を与える。人類にとって(同質な)集団の努力によって得られたものはない。

⑺肉体活動に大きく影響される「精神活動」
ウイルスやアルコールの影響で人格が変わることからもわかるように、精神は大脳の状態に依存している。

しかしこれだけでは脳だけが意識の器官であるとはいえない。
大脳は体液に浸かっており、体液は様々な内臓の分泌液であるから、体液を媒介として大脳皮質とすべての器官は繋がっている。
我々の精神状態は脳細胞の構造とともに、体液の化学成分とも結びついている。

また生殖腺は精神に対して最も強い影響を与える。
偉大な芸術家はほとんどすべてが大恋愛をしている。さらに愛するその対象を得られないときに精神は刺激される。フロイトは、精神活動には性的衝動が最も重要だと力説しているがその通りである(彼の研究対象は主に病人であり、健康で意志力のある人全てに当てはめるべきではないのは注意が必要だが)。
このように精神活動と肉体活動は相互に依存している。

⑻精神活動に大きく影響される「肉体活動」
逆に精神状態が肉体に現れることも周知のことだ。気分によって顔が赤くなったり青くなったりすることを始め、不快な感情が習慣になると病気になったりする。

願望を統一し、一つの目的に向かって精神を集中することは心に平和をもたらす。
行動ではなく瞑想でも良い。

病気を治したい人は自分のために祈るのではなく、他人のために祈ることだ。
完全に自己を放棄し、自己否定を帯びた祈りは不思議な現象を起こすことがある。それが奇跡である。

奇跡は実在する。永久機関があり得ないのと同じく、生理学の法則でも奇跡はあり得ないとされているが、ルルド(フランスにある聖地)に連れてこられた患者の著しい回復の報告が多数ある。この奇跡に必要なのは祈りである。しかも患者自身が祈る必要はない。信仰を持つ必要すらない。患者の周りのだれかが祈りの状態になればいいのである。この事実は心理と肉体の間にまだ明らかになってない関係があることを示している。

⑼社会環境は精神活動にどう作用するか
精神活動は脳と体液からと同様に社会環境からも深い影響を受ける。
山岳ガイドの体力が優れているように、都会人がオフィスワークに耐えられるように、肉体は自然と発達する。
しかし精神はそうではない。精神の現れ方は社会的集団の心理的状態によって決まる。

知能は教育と環境でほとんど決まる。もし知的でない環境にいたとしても読書などで高い教養を身につけることはできる。知能の教育は比較的容易である。
しかし道徳的、美的、宗教的活動の形成は非常に難しい。こうした活動に対して環境が与える影響はかなり微妙なものである。
現代は産業やメディアの隆盛により精神的活動に適した環境にはなってない。ただし、一流の作品が見やすくなった点では、例外的に美的活動には好都合である。

道徳観念は今では無視されている。
勤勉な人は貧乏で、お金を貯めると盗まれ、芸術家と科学者は社会に美と健康と富をもたらすが貧窮のうちに死ぬ。盗人は繁栄する。犯罪者と暮らせば自分も犯罪者になる。
このような社会環境と戦っても勝ち目はない。

⑽精神の病について
精神は肉体より弱く、精神病だけで他の病気を全部合わせたより数が多いという有様である。

現代医学では精神病の本質については全くわかっていない。

精神病の原因を発見することは、本質を見極める以上に重要だろう。
現代の生活習慣には基本的な欠陥が隠されている。科学文明の素晴らしさにもかかわらず人間の個性は次第に崩壊していく傾向にある。


○感想
いやーすごい情報量だ
全然入ってこない。
ほんと人間ってなんなんだろうな

・現代の科学では肉体と精神を分けて考えてるが本来は区別できない
・精神活動も知性とか道徳とかジャンル分けしてるが本来は区別できない
こういう時こそ「あるものをあるがままうけいれる」的な東洋思想の出番か。そうでもないか。

「医学書も小説も興味の対象は同じ」というのは考えてみれば確かにその通りで面白い。

 

 

人間 この未知なるもの (知的生きかた文庫)

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